~遥かなる悠久の歴史遺産~
  • 心に刻まれた旅の思い出
  • まだ見ぬ美しい世界へ
かつての栄華に思いを馳せて.....
文明の繁栄と夢の跡

目次

建国神話
王政ローマ
共和政ローマ
イタリア半島統一
ポエニ戦争
マケドニア戦争

建国神話Founding Myth

パラティーノの丘

ローマ

トロイ戦争でトロイが陥落した際、トロイの英雄アイネアスはトロイを脱出し、新天地を求めて地中海各地を彷徨い、イタリア中部のラティウム(ラテン人の住む土地)に辿り着き、そこでラティウムの王女ラウィニアと結婚して、新たな町「ラウィニウム」を建設した。
彼の死後、息子が後を継ぎ、新しくアルバ・ロンガ王国を築いた。
数百年後、ヌミトルが王位を継承したが、弟アムリウスが王位を奪い、ヌミトルの娘レア・シルヴィアを「ウェスタ神の巫女」にした。
巫女は終生処女でなければならなかったが、軍神マルスは巫女に一目惚れし、二人の間に双子の男の子が生まれ、怒ったアムリウスはレアを殺し、双子を籠に入れてテベレ川に流した。
岸に辿り着いた双子は、一匹の狼に乳を与えられて育ち、それを発見した羊飼いに育てられ、ロムルスとレムスと名づけられた二人は、やがて自らの生い立ちを知り、王位を奪ったアムリウスを殺し、祖父のヌミトルを復位させた。
紀元前753年、二人は新しい都市の建設をしようとそれぞれ丘を選び、どちらが新都の支配者になるか鳥占いで決し、ロムルスが選ばれて「パラティーノの丘」を聖域として定めると、不満なレムスはそれを飛び越えて、怒ったロムルスに殺され、ロムルスは絶大な支配者となり、ここに都市国家「ローマ」が建国され、新たな歴史が始まった。

王政ローマMonarchy Rome

建国時の政治体制

ローマ

ローマを建国したロムルスは、「王」「元老院」「市民集会」という三権分立の体制を作り、初代の王となったロムルスは、都市の人口不足に悩み、ローマに女性が少なかったため、近隣のサビニ人に目をつけ、サビニ人の多くの女性達を略奪して、強引に結婚させた。
当然の如く、両者は戦争になったが、サビニ人の女性が「どちらが勝っても不幸になる」と嘆願したことで戦争は終結し、両者は和平を結び、ローマ人とサビニ人が交互に王位に就く、対等合併をした。
ロムルスの死後も、歴代の王(5代目からはエトルリア人)は都市の建設と防衛に努めたが、7代目の王タルクィニウスはエトルリアの支持もあり暴君で、ローマはエトルリアに支配されていたため、紀元前509年、王が遠征中にローマ市民は王を追放し、王政は終焉を迎え、「共和政」へと移行した。

共和政ローマRepublic Rome

貴族と平民の権利平等

ローマ

王政を打倒したローマは、2人の執政官(任期1年)が治める共和政への道を歩み始めたが、ローマ市民は「貴族」「平民」「奴隷」の階級があり、権力を握ったのは貴族で、実権は貴族のみが参加する「元老院」が握り、執政官も貴族から選ばれる、「貴族共和政」であった。
戦争の主役が貴族の騎兵から平民の重装歩兵に変わると、平民の権力は増して参政権を要求し、紀元前494年、貴族の専横から平民を守る役職である「護民官」ができ、執政官の決定に拒否権を行使できた。
さらに、紀元前451年に貴族が独占していたローマ最古の包括的な法典(慣習法)を平民に公開した「十二表法」、紀元前445年に貴族と平民の通婚が認められた「カヌレイウス法」、紀元前367年に執政官の一人を平民から出すことなどを定めた「リキニウス・セクスティウス法」、紀元前287年に平民会の決議は元老院の承認が無くとも国法とする「ホルテンシウス法」が制定され、これにより紀元前5世紀から続いた貴族と平民の身分闘争は終結、平民が貴族と台頭の権利を獲得し、ローマの共和政は完成の時期を迎えた。

イタリア半島統一Italy Unification

全ての道はローマに通ず

ローマ

都市国家として出発したローマは、紀元前4世紀頃から周辺への征服を進め、最初にラティウム地方のラテン人諸都市を「ラティウム戦争」で征服、次にイタリア半島の中部から東南部のサムニウム人を「サムニウム戦争」で征服、最後にイタリア南端のギリシア人の植民都市を征服し、紀元前272年、イタリア半島の統一を果たした。
この過程で、軍用道路の「アッピア街道」が建設され、ローマの支配地域に張り巡らされて、「全ての道はローマに通ず」といわれた。
また、ローマは征服したイタリア半島の諸都市と個別に条約を結び、「植民市」「自治市」「同盟市」の区別を設け、各都市が互いに同盟できないように、「分割統治」で支配した。
・植民市:ローマの征服地にローマ人が入植して建設した都市で、ローマと同等の市民権が与えられた都市
・自治市:ローマに征服された都市で、一定の自治権(軍事・司法上の権利はローマ)が認められた都市
・同盟市:ローマに征服された都市で、完全にローマに従属し、市民権も自治権も認められなかった都市
この後、ローマは地中海に目を向け、覇権を握るフェニキア人の都市国家カルタゴと「ポエニ戦争」に突入した。

ポエニ戦争Punic War

大国への第一歩

ローマ

シチリア島のメッシーナとシラクサ・カルタゴ連合の抗争を発端に、紀元前264年、メッシーナからの救援要請に応じ、ローマがシチリア島に軍を派遣したことで、100年以上に渡るポエニ戦争が開戦した。
ローマは「第一次ポエニ戦争」で勝利し、シチリア島を属州にした。
紀元前218年、カルタゴの名将ハンニバルがアルプス超えでイタリアに侵攻して、「第二次ポエニ戦争」が始まり、ローマはハンニバルの戦術の前に各地で敗戦を続け、紀元前216年の「カンネの戦い」で絶望的な敗戦を喫し、あわやローマ滅亡の渕まで追い込まれた。
ここで、ローマはスキピオ・アフリカヌスが将軍となり、イベリア半島に侵攻して完全に征服し、さらにハンニバルがイタリア半島南部にいる間に、カルタゴを直接攻撃するためアフリカに上陸すると、ハンニバルが帰国命令により戻り、紀元前202年、カルタゴ近郊で「ザマの戦い」となり、名将同士の対決はスキピオ率いるローマが勝利した。
ローマの英雄となったスキピオは、その後もシリア戦争で勝利して名声を高めたが、その独裁化を恐れた政敵カトーに横領などの罪で元老院に告発され、政敵カトーとの争いに敗れて政治の舞台を去り、紀元前183年に亡くなった。
紀元前149年、ローマは驚異的な復興力で繁栄を取り戻し経済力をつけたカルタゴが脅威となり、カルタゴを徹底的に破壊するため「第三次ポエニ戦争」を始め、3年後に陥落させ、カルタゴは炎上して廃墟となり、終焉を迎えた。

マケドニア戦争Macedonia War

属州の獲得と帝国への歩み

ローマ

第二次ポエニ戦争中の紀元前215年、カルタゴと同盟関係にあったアンティゴノス朝マケドニアがローマに侵攻して「第一次マケドニア戦争」となり、ローマは苦戦しながらも、マケドニアに反発していたギリシア諸都市をマケドニアの支配から開放し、和平条約を締結した。
しかし、マケドニアがローマを倒すためセレウコス朝シリアと同盟を結んだことを発端に、紀元前200年に「第二次マケドニア戦争」となり、ローマは勝利したが征服には至らず、和平条約を締結した。
さらに、紀元前190年、セレウコス朝シリアのギリシアへの侵攻に対し、ローマは軍を派遣して打倒したが、この時シリアの参謀として、元カルタゴの将軍ハンニバルが参加していた。
紀元前171年、マケドニアがローマに「第三次マケドニア戦争」を挑んだが、紀元前168年の「ピュドナの戦い」で大敗し、マケドニアは滅亡し、4つの共和国に分けられた後、紀元前148年の反乱を機に、ローマの属州になった。
この戦争でローマはマケドニアとギリシアを属州として獲得し、ヘレニズム文化がローマに一気に流入してくることとなり、質実剛健だったローマ文化が、ヘレニズム文化の影響を受け、より明るく華やかな文化に変わっていった。

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