~遥かなる悠久の歴史遺産~
  • 心に刻まれた旅の思い出
  • まだ見ぬ美しい世界へ
かつての栄華に思いを馳せて.....
文明の繁栄と夢の跡

目次

建国神話
繁栄期
シチリア戦争
第一次ポエニ戦争
第二次ポエニ戦争
第三次ポエニ戦争

建国神話Founding Myth

ビュルサの丘

カルタゴ

フェニキア人が築いた都市国家ティルスの王女エリッサが、兄のピグマリオンに夫を暗殺され、自らの命も狙われたため地中海に逃げた。
途中、キプロスに寄りながら航海の旅を続け、紀元前814年、彷徨い辿り着いた北アフリカのチュニスに、フェニキア語で「カルト・ハダシュト(新しい町)」を意味する、「カルタゴ」の町を建設した。
町を建設する際、エリッサはこの地のベルベル人の王イアルバースに土地の分与を申し入れ、牝牛1頭分の牛皮1枚で覆えるだけの土地を分与してもらえることとなったエリッサは、牝牛1頭分の牛皮を細長くひも状に引き裂いて、「ビュルサの丘」をぐるっと囲って土地を手に入れ、ここに古代カルタゴの城塞が築かれた。
エリッサは町の基本法を制定し、権力は二人の最高官に配分され、貴族と一般市民には一定の権利が与えられた。

繁栄期Prosperity Period

西地中海覇者への台頭

カルタゴ

地中海に面するカルタゴは、優れた航海技術を活かし、次第に力をつけていき、紀元前6世紀までに西地中海交易を独占するまでになった。
西地中海交易の覇者となり、強力な海軍を有するカルタゴは、各地へ領土拡大を進め、北アフリカ沿岸沿いから地中海のサルディーニャ島、マルタ島、イベリア半島、バレアレス諸島までを支配した。
イベリア半島に植民都市を建設し、イベリア半島の豊富な資源(金・銀・銅)による独占交易で富が潤い、より一層の繁栄を極めた。
この地中海におけるカルタゴの領土と覇権の拡大は、同じ地中海国家で地中海全域に植民を進め、確固たる勢力を誇っていたギリシアとの対立は避けられず、両者が地中海で重要な島と位置づける「シチリア島」を舞台に、シチリア島の領有権を巡り、三度に渡る「シチリア戦争」へと突入した。

シチリア戦争Sicily War

シチリア島の争奪戦

カルタゴ

紀元前480年、ギリシアに支援されたシラクサの僭主ゲロンがシチリア島の統一を試みたことを発端に、カルタゴは将軍ハミルカル・マーゴがシチリア島へ遠征したが、「第一次ヒメラの戦い」でゲロンに大敗、将軍ハミルカルも死亡し、「第一次シチリア戦争」は終焉した。
カルタゴにとって、この敗北は大打撃となり、国力が弱体化した。
紀元前410年までにカルタゴは復活を遂げ、再び地中海沿岸を支配する勢力となり、紀元前409年、息子のハンニバル・マーゴは再度シチリア島へ遠征を行い、「第二次ヒメラの戦い」で小都市を占領した。
紀元前405年、ハンニバルはシチリア島の完全な占領を目指し二回目の遠征を行うも、カルタゴ軍に疫病が蔓延してハンニバルも亡くなり、その後も小競り合いが続くが両者の決着はつかず、「第二次シチリア戦争」は終焉した。
紀元前311年、シラクサのアガソクレス王に「第三次ヒメラの戦い」で、カルタゴ最後の要塞アクラガスを包囲されて危機に陥るが、カルタゴ軍は事態を打開し、逆に紀元前310年にはシチリア島のほぼ全域を占領するまでに至り、紀元前307年に両者は停戦し、カルタゴはシチリア島の西半分を支配下にし、「第三次シチリア戦争」は終焉した。
紀元前265年、カルタゴとシラクサは同盟を結んでメッシーナに侵攻し、メッシーナはローマに救援を求め、ローマはシチリア島進出の好機と捉えてカルタゴと対決することになり、カルタゴとローマの「ポエニ戦争」が開戦した。

第一次ポエニ戦争First Punic War

西地中海の覇権争い

カルタゴ

紀元前264年、ローマがシチリア島に遠征し、シラクサを攻略、続いてアグリジェントも攻略し、勝利に勢いづくローマは次々とシチリア島内の都市を攻略し、さらに海軍を新設して海上戦に乗り出した。
海戦経験の少ないローマであるが、急速に適応していき、強力な海軍力を有するカルタゴに勝利を続け、カルタゴは本国にまで迫られた。
危機に瀕したカルタゴはスパルタの傭兵を雇って軍隊を再編し、チュニスの戦いで勝利し、ローマに大打撃を与えることに成功した。
紀元前249年に将軍ハミルカル・バルカをシチリア島へ送り、シチリア島内全域の支配を獲得するも、紀元前241年のアエガテス諸島沖の海戦でのローマの勝利が決定的な打撃となり、カルタゴは降伏せざるを得ず、シチリア島はローマの属州に組み込まれ、「第一次ポエニ戦争」は終焉した。
この敗戦で、西地中海の覇権を大きく失ったカルタゴは、失った覇権を取り戻すべく、イベリア半島の征服を行い、「カルタヘナ」や「バルセロナ」などの都市を建設し、来るべきローマへの復讐に備えて軍隊を養成した。
将軍ハミルカル・バルカは、9歳の息子ハンニバル・バルカを神殿に連れて行き、生涯ローマへの復讐を誓わせた。

第二次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)Second Punic War(Hannibal War)

ローマ滅亡の渕...そして逆襲へ

カルタゴ

ローマへの復讐の機会を狙っていたカルタゴの名将ハンニバル・バルカは、ローマを完全に屈服させるためには本国への直接攻撃が最善策で、地中海の覇権を握られている以上、陸上からの侵攻となるが、ローマの防備が厚いイタリア西南部からではなく、ローマの防備が薄いアルプス山脈越えの北方から侵攻する、前代未聞の戦略を考えた。
紀元前218年5月、ハンニバルはカルタヘナを出発し、エブロ川を渡り、ピレネー山脈を越えてフランスに入り、ローヌ川を渡ったハンニバルは、約4万の兵士と30頭の象を率いてアルプス越えに挑んだ。
想像を絶する困難を極めながらアルプスを越えに成功し、イタリアに到着した際は歩兵2万6千、3頭の象であった。
カルタゴは11月の「ティキヌスの戦い」、12月の「トレビアの戦い」でローマに勝利すると、ハンニバルの名声は大きく広がり、ローマに敵対的だったガリア人が味方につき、カルタゴの軍勢は一気に5万にまで膨れ上がった。
紀元前217年の「トラシメヌス湖畔の戦い」ではハンニバルの戦術で、分散して待ち構えていたローマを打ち破り、紀元前216年の「カンネの戦い」でもハンニバルの戦術により、8万に増強したローマを完全包囲して全滅させた。
この勝利でハンニバルの名声は頂点に達し、ローマの重要都市カプアとシラクサがカルタゴへの味方を宣言した。
しかし、ハンニバルの猛攻もここまでで、ローマの結束力が意外に堅く、反乱の動きもなく、一進一退となった。
大敗北を喫し滅亡の渕に陥ったローマであるが、この絶望的な状況から底力を見せ、2年かけてカプラを陥落、3年かけてシラクサを陥落させ、さらにハンニバルとの決戦を避け、カルタゴ周辺からの切り崩し戦略へと切り替えた。
この戦略転換が、カルタゴ本国やイベリア半島から、敵地のハンニバルへの補給や援軍の派遣ができず苦しめた。
イベリア半島はハンニバルの弟ハスドルバルが守っていたが、ローマの将軍スキピオがイベリア半島に到着すると、紀元前209年にカルタヘナを征服し、その後も次々と撃破し、紀元前206年にイベリア半島を完全に征服した。
紀元前204年、スキピオがアフリカに上陸し、カルタゴ本国を脅かしたため、ハンニバルに帰国命令が出て、ハンニバルは遂にローマを直接攻撃することは出来ず、16年に渡るイタリア侵攻を万感の思いで終え、本国に戻った。
紀元前202年、二人の名将が対峙する「ザマの戦い」となるが、ハンニバルの戦術を学んで優秀な将軍に成長し、ハンニバルの戦術を熟知したスキピオ率いるローマが勝利し、カルタゴは降伏して「第二次ポエニ戦争」は終焉した。
その後、ハンニバルはカルタゴの復興に尽力したが、反ハンニバル派の台頭によりシリアに亡命、シリア戦争でセレウコス朝シリアの参謀としてローマと対峙するが、ローマが勝利するとシリアから脱出し、黒海沿岸のビテュニア王国に辿り着くも、ローマの追及に苦しみ、奇しくもかつての好敵手スキピオと同じ紀元前183年、最後は自殺した。

第三次ポエニ戦争Third Punic War

カルタゴ炎上

カルタゴ

二度の敗戦で海外領土を全て失ったカルタゴは、農業国として歩み、貿易で繁栄を取り戻し、ローマへの高額賠償金も繰り上げ完済した。この驚異的な経済力や復興力はローマの脅威となり、ローマ内では今の内にカルタゴを徹底的に破壊すべきとの意見が大勢を占めた。
その頃、カルタゴは隣国ヌミディアとの国境紛争が絶えず、ヌミディアの侵略に対する軍事行動が、他国との交戦を禁じた条約違反として、紀元前149年にローマはカルタゴの釈明を聞き入れず進軍した。
カルタゴとローマの軍事力の差は圧倒的で、結果は決まっていたが、それでもカルタゴは鉄壁の城壁に守られて3年に渡る抵抗をし、最後は陥落して「第三次ポエニ戦争」は終焉した。
敗戦の度に国力が衰退しても諦めず、その都度、不死鳥のように甦り何度も復活を遂げ、ローマを滅亡の一歩手前まで追い込んだカルタゴも、徹底的に破壊され炎上して廃墟となり、生存者は奴隷として売られ、完全に滅亡した。

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