目次
王国建国 |
ギリシア征服 |
東方遠征 |
ディアドコイ戦争 |
アンティゴノス朝マケドニア |
紀元前700年、ドーリア系ギリシア人のペルディッカス1世がギリシア北方の「アイガイ」を都に築いた王国で、ギリシア本土とは異なり、都市国家を形成することはなく、諸都市と違う王政を取り続けた。
ギリシア人から他民族「バルバロイ」扱いを受けたが、言語と宗教は同じで、古くからヘラクレスの地を引くギリシア人とも認められた。
ペルディッカス2世の時代に「ペロポネソス戦争」が起きたが、参戦はせず、国内整備と国力向上に努め、都を北方の「ペラ」に遷都した。
この後、王位継承争いやイリュリア王国の攻撃を受けて、王国は安定せず、紀元前359年、ペルディッカス3世がイリュリア王国の侵攻に敗れて戦死し、一部地域が支配下におかれた。
兄ペルディッカス3世の戦死を受けて、弟フィリッポス2世が即位し、マケドニア王国は強国への道を歩み始めた。
紀元前359年、即位したフィリッポス2世は、軍政改革に従事した。
彼は若い頃、一時ギリシアの覇権を握ったテーベの人質として過ごしており、その際に政治や軍事を学び、即位後はギリシャの先進文化を積極的に取り入れ、国政の改革と軍事の強化に努め、ギリシア北方の後進国だったマケドニア王国を、希代の強国へと急成長させた。
紀元前358年にイリュリア王国を征服して兄の復讐を果たし、翌年にはトラキア王国も征服して北方を平定した後、紀元前338年、フィリッポス2世はペロポネソス戦争後のギリシアにおける混乱に乗じてギリシア本土に侵攻し、「カイロネイアの戦い」でアテネ・テーベ連合軍に勝利し、紀元前337年にスパルタを除くギリシアの全ポリス間の同盟「コリントス同盟(ヘラス同盟)」を結成し、その盟主となりギリシアを支配下に収めた。
後顧の憂いを断ったフィリッポス2世は、ペルシア遠征の計画を進めたが、紀元前336年に娘とエピロス王の結婚式で護衛のパウサニアスに暗殺され、夢にまで見たペルシア遠征の大事業は、息子アレクサンドロス3世に託された。
紀元前336年、父王が暗殺されて、20歳で即位したアレクサンドロス3世は、父の遺志を継いで、紀元前334年にペルシア遠征を開始した。
「グラニコス川の戦い」で小アジアを征服、紀元前333年に「イッソスの戦い」でダレイオス3世率いるアケメネス朝ペルシアに勝利した。
その後、シリア・フェニキア・エジプトへと南下し、紀元前332年にエジプトをペルシアの支配から解放して、ファラオとして認められ、ナイル川のデルタ地帯の西端に「アレクサンドリア」を建設した。
紀元前331年、「ガウガメラの戦い」で再びダレイオス3世率いるペルシアを撃破し、この敗北でダレイオス3世がカスピ海東岸に逃げると、オリエントで大帝国を築いたペルシア帝国も雪崩式に崩壊し、アレクサンドロス3世は王都の「バビロン」や「スサ」に無血入城し、「ペルセポリス」に入った際は、これまでとは対照的に、ペルシア戦争の復讐の意味を込めて、ペルセポリスを徹底的に破壊して焼き払った。
ペルシアの中枢を占領したアレクサンドロス3世は、逃亡したダイレイオス3世を追って進軍を続け、紀元前330年にダレイオス3世が部下のバクトリアの総督に殺されて、アケメネス朝ペルシアは完全に滅亡し、征服が完了した。
父の夢を叶えたアレクサンドロス3世は、さらに東方遠征を進め、中央アジアへ侵攻してバクトリアやソグディアナを次々と征服、ついにインダス川を越えてインドに到達し、インド中央部に向かおうとしたが、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく進軍を諦めて、軍を引き返し、紀元前324年にスサに凱旋帰還した。
これにより、ギリシアからインダス川流域まで及び、地中海世界とオリエント世界を含む、空前の世界帝国である「アレクサンドロスの大帝国」が誕生し、ギリシア文化とオリエント文化の融合「ヘレニズム文化」が成立した。
また、東方遠征の途上で各地にギリシア風の都市「アレクサンドリア」が建設され、軍事・交易の拠点となった。
この後、バビロンに戻ったアレクサンドロス3世は、アラビア半島遠征を計画していたが、紀元前323年、熱病を患い、「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言を残し、32歳の若さで急逝し、大帝国は後継者争いへと突入した。
紀元前323年、アレクサンドロス3世の死後、部下の武将(ディアドコイ)による後継者争い「ディアドコイ戦争」が全土で勃発した。
約50年に渡る激しい争いの中で、マケドニアで実権を握った武将カサンドロスにより、アレクサンドロス3世の妻と子は暗殺されて、マケドニア王家は断絶し、帝国の再統一を目指した武将アンティゴノスは、紀元前301年の「イプソスの戦い」で他武将の連合軍に敗れるなど、アレクサンドロスの大帝国は再び再統一されることはなかった。
アレクサンドロス3世が築いた史上空前の大帝国は、ディアドコイ戦争の中で最終的に勝ち残った3人の武将が、それぞれ時を異にして建国し、紀元前276年に「アンティゴノス朝マケドニア」「セレウコス朝シリア」「プトレマイオス朝エジプト」の三王国に分裂し、ヘレニズム三国と呼ばれた。
彼の死と同様に大帝国の繁栄は短命で終わり、今後、分裂した三王国の敵は地中海で覇権を握ったローマとなった。
紀元前276年、マケドニア王国のディアドコイの一人、アンティゴノス1世の孫アンティゴノス2世が、祖父と父の帝国再建の遺志を継ぎ、主権争いに勝ち、「ペラ」を都として建国したマケドニア王国で、オリエント的な専制国家ではなく、ギリシア的な市民国家を維持した。
しかし、ギリシアの覇権を巡り戦争が絶えず発生し、紀元前238年にフィリッポス5世が即位すると、地中海の覇権を拡大していたローマへの侵攻を画策し、二度に渡る「マケドニア戦争」でローマと戦うも、敗北して和平条約を結び、以後はローマの同盟国となった。
彼の死後、紀元前179年にペルセウスが即位すると、これまでのフィリッポス5世の路線を変更して、軍事力の強化を図り、紀元前171年にローマと三度目の「マケドニア戦争」となるが、紀元前168年の「ピュドナの戦い」で大敗し、アンティゴノス朝マケドニアは滅亡し、4つの共和国に分けられた後、紀元前148年にローマの属州になった。