目次
軍人皇帝時代 |
テトラルキア |
コンスタンティヌス朝 |
ウァレンティニアヌス朝 |
テオドシウス朝 |
西ローマ帝国 |
ローマ帝国はこの後、約50年間に渡り、強権を握った軍隊を背景に、軍人出身者が次々と皇帝に即位する「軍人皇帝時代」に突入した。
軍隊の力により皇帝に擁立されたが、軍隊の意に反することがあれば容易に退位させられたため、頻繁に皇帝が入れ替わる混乱となった。
235年に即位した皇帝マクシミヌス・トラクスに始まり、260年にササン朝ペルシアとの「エデッサの戦い」で捕虜となり、ローマ帝国の権威を失墜させた皇帝ウァレリアヌス、260年にガリア帝国と267年にパルミラ王国の独立を招いた皇帝ガッリエヌス、272年にパルミラ王国と274年にガリア帝国を征服して帝国の再統一を果たした皇帝アウレリアヌスなど、元老院が容認した皇帝の他にも、各地でローマ皇帝の僭称者が次々と現れたり、暗殺による帝位簒奪で頻繁に皇帝が入れ替わったため、皇帝の権威が動揺した不安定で内乱と変わらない状態が長期間続き、ローマ帝国の国力は衰退の一途を辿り危機を迎えた。
背景にはササン朝ペルシアとの抗争、北方のゲルマン人との戦いが激しくなり軍隊の発言力が強まっていたためで、この軍人皇帝時代の混乱を収拾したのが皇帝ディオクレティアヌスで、これ以降のローマ帝国の政治体制は、初代皇帝アウグストゥスが構築した共和政の原理の上に成立した「元首政」は終焉を迎え、「専制君主制」へと移行した。
年 代 | 王 朝 | 皇 帝 |
---|---|---|
235年~ | - | マクシミヌス・トラクス ゴルディアヌス1世 ゴルディアヌス2世 プピエヌス・マクシムス バルビヌス ゴルディアヌス3世 ピリップス・アラブス デキウス トレボニアヌス・ガッルス マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス ウァレリアヌス ガッリエヌス クラウディウス・ゴティクス クィンティッルス ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス マルクス・クラウディウス・タキトゥス フロリアヌス プロブス マルクス・アウレリウス・カルス カリヌス |
284年に軍人皇帝時代の混乱を収拾して即位した皇帝ディオクレティアヌスは、政治体制を「元首政」から「専制君主制」へと切り替え、285年には帝国を東西に分割し、自らはローマを離れて都を小アジアの「ニコメディア」に定めて東方を統治し、西方は副帝のマクシミアヌスが共同皇帝として首都を「メディオラヌム」に定めて統治した。
293年、皇帝ディオクレティアヌスは東方と西方のそれぞれに正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)をおく、新しい試みである「テトラルキア(四帝分治制)」を始めて、帝国の再建を図った。
また、自らをユピテル神として「皇帝崇拝」をキリスト教徒に強要し、それを拒否したキリスト教徒に対し、303年に最後で最大の「キリスト教の大迫害」を実施し、キリスト教の書物は焼却され、教会の財産は没収された。
東正帝ディオクレティアヌスと西正帝マクシミアヌスは、305年に公約の20年の統治期間を終えて退位すると、東副帝ガレリウスと西副帝コンスタンティウスはそれぞれ正帝に昇格し、新たに東副帝にマクシミヌス・ダイアと西副帝にフラウィウス・ウァレリウス・セウェルスが選任されたが、306年に西正帝コンスタンティウスが死ぬと、西副帝セウェルスが西正帝となったが、コンスタンティウスの息子コンスタンティヌス1世も父の後継者として西正帝を宣言し、マクシミアヌスの息子マクセンティウスは身分を不満として、307年に西正帝セウェルスを殺害し、マクシミアヌスとマクセンティウスの父子も西正帝を宣言するなど、308年には4人が正帝を名乗る事態となった。
その後、一度は帝国会議により西正帝をリキニウス、西副帝をコンスタンティヌス1世として合意を得たが、東副帝マクシミヌスと西副帝コンスタンティヌス1世は西正帝リキニウスの地位を認めようとはせず、309年には両者とも正帝と認めざるを得なくなり、4人の正帝が互いに反目しあい、遂には正帝の座を巡り内戦となり、帝位を狙った多くの有力者は亡くなり、313年には西正帝コンスタンティヌス1世と東正帝リキニウスだけが最終的に生き残り、324年にコンスタンティヌス1世はリキニウスを倒して「唯一の正帝」を宣言し、テトラルキアは終焉を迎えた。
年 代 | 王 朝 | 皇 帝 |
---|---|---|
293年~ | - | ディオクレティアヌス マクシミアヌス ガレリウス コンスタンティウス・クロルス マクシミヌス・ダイア フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス コンスタンティヌス1世 マクセンティウス リキニウス マルティニアヌス バシアヌス ウァレリウス・バレンス 小リキニウス クリスプス |
312年、テトラルキアによる正帝の座を巡る内戦の中で、コンスタンティヌス1世はライバルのマクセンティウスに勝利すると、この戦勝を記念してローマに「コンスタンティヌスの凱旋門」を建造した。
西正帝としてローマに入ったコンスタンティヌス1世は、313年に東正帝リキニウスとミラノで会見し、「ミラノ勅令」を発令して宗教の自由を認めキリスト教を公認し、ローマ帝国における大転換を図った。
また、324年に対立した東正帝リキニウスに勝利し、専制君主制の確立・発展とローマ帝国の統一を再興し、「大帝」と称された。
翌325年には「ニケーア公会議」を主催してキリスト教の教義の一本化を図り、アタナシウス派(キリストは神の子であり神と同質である)を正統、アリウス派(キリストは神の子であっても神と同質ではない)を異端とした。
さらに330年には退廃著しいローマを事実上放棄し、「第二のローマ」として「コンスタンティノープル(旧ビザンティウム)」を建設して遷都し、ローマ帝国の基盤はギリシア、東地中海、小アジアなどの東方に比重が動いた。
こうして新しい地でローマ帝国の復興を行おうとしたが、フン族やゴート族など異民族との抗争も激化し、大帝国を皇帝一人で管理できる余裕はなく、363年に皇帝ユリアヌスがササン朝ペルシアへの遠征の陣中で亡くなると、後継者が定まっておらず、将軍フラウィウス・ヨウィアヌスが皇帝となり、コンスタンティヌス1世の血筋は途絶えた。
年 代 | 王 朝 | 皇 帝 |
---|---|---|
324年~ | コンスタンティヌス朝 | コンスタンティヌス1世 クリスプス ダルマティウス ハンニバリアヌス コンスタンティウス2世 コンスタンティヌス2世 コンスタンス1世 コンスタンティウス・ガッルス フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス |
364年、皇帝ヨウィアヌスがコンスタンティノープルへの帰還途中にガス中毒で死亡したため、将軍ウァレンティニアヌスが皇帝に擁立され即位すると、弟ウァレンスを共同皇帝に据え、帝国を直ちに東西に再分割し、自らは西帝として、弟を東帝として統治を行った。
その後、主に西方ではアフリカ、ゲルマニア、ブリタンニアで蛮族との紛争に追われることとなり、特にブルグント族とサクソン族は脅威となる存在で、ローマ帝国の支配が危うくなることもあった。
375年の西帝ウァレンティニアヌスの死後、グラティアヌスが弟ウァレンティニアヌス2世と西帝として跡を継いで西方を分割統治し、378年に東帝ウァレンスが西ゴート族との「ハドリアノポリスの戦い」で戦死後、西帝グラティアヌスは隠遁生活を送っていたテオドシウス1世を東帝に任命した。
383年に将軍マグヌス・マクシムスがブリタニアの軍隊に推され帝位を僭称してガリアに進軍を開始したため、西帝グラティアヌスは迎え撃ったが、配下の裏切りで敗走しリヨンで殺害され、387年にはマクシムスに攻撃された西帝ウァレンティニアヌス2世は東帝テオドシウス1世のもとに逃れ、力を借りてマクシムスを倒し一旦は安定したが、392年にフランク族の将軍アルボガストに殺され、テオドシウス1世はたった一人で東西ローマ帝国を支配した。
年 代 | 王 朝 | 皇 帝 |
---|---|---|
364年~ | ウァレンティニアヌス朝 | ウァレンティニアヌス ウァレンス グラティアヌス ウァレンティニアヌス2世 テオドシウス1世 |
392年にたった一人の皇帝となったテオドシウス1世は、フランク族の将軍アルボガストが擁立した皇帝エウゲニウスを394年の「フリギドゥスの戦い」で破り、東西分裂していたローマ帝国を再統一した。
また、アタナシウス派のキリスト教をローマ帝国の国教に定めた。
395年、テオドシウス1世は死にあたり、ローマ帝国を「西ローマ帝国(首都メディオラヌム)」と「東ローマ帝国(首都コンスタンティノープル)」に分割し、息子ホノリウスを西ローマ皇帝、もう一人の息子アルカディウスを東ローマ皇帝に指名し、以降は統一されることはなく、わずか1年であったが一人で帝国を支配した最後の皇帝となり、「テオドシウス大帝」とも呼ばれる。
この後、ローマ帝国は二分割されて別々の道を歩むことになり、テオドシウス1世の血筋は、西ローマ帝国では455年の皇帝ウァレンティニアヌス3世まで、東ローマ帝国では457年の皇帝マルキアヌスまで続くこととなった。
年 代 | 王 朝 | 皇 帝 |
---|---|---|
394年~ | テオドシウス朝 | テオドシウス1世 ホノリウス アルカディウス コンスタンティウス3世 テオドシウス2世 ウァレンティニアヌス3世 マルキアヌス |
西ローマ帝国を継承した皇帝ホノリウスは、賢明で忠誠心の厚いヴァンダル族の将軍スティリコの補佐を受けながら安定した統治を行っていたが、403年に首都をゲルマン人の攻撃を受けやすい「メディオラヌム」からアドリア海に面した港湾都市「ラヴェンナ」へ遷都した。
407年、属州のブリタンニアでコンスタンティヌス3世が皇帝を僭称し、軍隊を率いてブリタンニアを離れたため帝国は支配を失った。
また、実質的に政務を行っていた将軍スティリコは、東ゴート族や西ゴート族の王アラリックの侵攻から守っていたが、408年に暗愚な皇帝ホノリウスは実権を取り戻すため陰謀罪で処刑してしまい、この決断が帝国の勢力の衰退を導くこととなった。
410年に西ゴート族の王アラリックが再び侵攻してくると、皇帝ホノリウスはラヴェンナに籠って抵抗せずに防衛に努めたため、簡単にローマを略奪され、423年に帝国の実質的な滅亡の一因を作った皇帝ホノリウスは亡くなった。
424年に即位した皇帝ウァレンティニアヌス3世の治世には、439年に属州のアフリカをヴァンダル族に奪われ、451年からはフン族の王アッティラの侵攻を受けるなど、ゲルマン諸部族に帝国内の領土を次々と蹂躙された。
455年に皇帝ウァレンティニアヌス3世は暗殺され、その後も領土縮小の一途を辿る中、皇帝位も不安定となり、475年に将軍フラウィウス・オレステスが皇帝ユリウス・ネポスを追放して実権を掌握し、息子のロムルス・アウグストゥスを皇帝に擁立したが、476年にゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが反乱を起こし、将軍オレステスは殺害され、皇帝アウグストゥスも退位に追い込まれ、わずか80年余りの期間で、西ローマ帝国は滅亡の時を迎えた。
傭兵隊長オドアケルは、若い皇帝アウグストゥスの命までは奪わなかったが、最後の皇帝となった彼の名は、奇しくも、伝説上の王政ローマの初代王ロムルスと帝政ローマの初代皇帝アウグストゥスの名をあわせたものであった。
この後、傭兵隊長オドアケルは皇帝には即位せず、東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ西ローマ帝国の皇帝位を返上して、自らは皇帝ゼノンの代理としてイタリアを統治するイタリア王に即位すると、「オドアケル王国」を建国した。
年 代 | 王 朝 | 皇 帝 |
---|---|---|
395年~ | - | ホノリウス コンスタンティヌス3世 コンスタンティウス3世 ウァレンティニアヌス3世 ペトロニウス・マクシムス アウィトゥス マヨリアヌス リウィウス・セウェルス アンティミウス オリブリオス グリケリウス ユリウス・ネポス ロムルス・アウグストゥス |