~遥かなる悠久の歴史遺産~
  • 心に刻まれた旅の思い出
  • まだ見ぬ美しい世界へ
かつての栄華に思いを馳せて.....
文明の繁栄と夢の跡

目次

ユリウス・クラウディウス朝
四皇帝の年
フラウィウス朝
ネルウァ・アントニヌス朝
五皇帝の年
セウェルス朝

ユリウス・クラウディウス朝Julius・Claudius

元首政(プリンキパトゥス)

ローマ

初代皇帝アウグストゥスが築いた政治体制は、皇帝が全ての権力を掌握しているが、元老院や平民会、執政官や護民官も継続されており、これまでの共和政を基盤とした帝政、つまり「元首政」であった。
皇帝アウグストゥスは遺言で、妻リウィアの連れ子で娘ユリアの夫であったクラウディウス家のティベリウスを自らの後継者に指名した。
14年に即位した皇帝ティベリウスは、アウグストゥスの政治の継承と確立に努め、際限なく拡大する国家財政を健全に保つため、帝国全体のための施政を心がけ、ローマ市民や元老院の人気は低かったが、あえて甘受し、晩年はローマにほとんどおらず、カプリ島に居を移し、彼の死はローマ市民から歓呼で迎えられた。
37年、ティベリウスの甥である皇帝カリグラが即位すると、ローマ市民から熱烈に歓迎され、最初の7ヶ月間における彼の治世は、非常に寛大で穏健であったが、7ヵ月後に深刻な病に倒れ、その後全快するも徐々に彼に変化が起こり、次第に暴君へと変貌していき、壮大な建設事業と領土拡大に力を注ぎ、最高権力者としての威信を高めることに努め、自らを打ち倒そうとする陰謀から自身の地位を懸命に守り続けたが、最後は元老院の意向により暗殺された。
41年に即位したティベリウスのもう一人の甥ゲルマニクスの弟である皇帝クラウディウスは、多くの政治改革や公共建築の増強を推し進め、先帝の暴政の痛手から帝国を再建し、ガリアからさらに北方にあるブリタンニア島を占領して属州ブリタンニアを編成するなど、元老院やローマ市民からの支持も安定し、ようやく帝政は安定期を迎えた。
54年に妻アグリッピナに毒殺され、妻の連れ子である皇帝ネロが即位すると、初期は母アグリッピナや家庭教師のセネカ、近衛隊長のブッルスの補佐を受け名君として君臨したが、次第に独裁的な権限を揮い始め、近親者やキリスト教徒を迫害したため暴君とされたが、ローマの大火後に指揮した政策は評判が高く、芸術の愛好家でもあった。
68年、ヒスパニア総督ガルバが皇帝ネロに反旗を翻すと、元老院はガルバを「国家の敵」としたが、ガルバがローマに進軍を始めると、皇帝ネロと対立していた元老院はガルバを皇帝に推挙し、皇帝ネロを「国家の敵」と弾劾した。
光と闇を放った皇帝ネロは、ローマ郊外の別荘に隠れたが、自殺に追い込まれ、「世界は偉大な芸術家を失った」と泣きながら死に、彼が他の対立皇帝候補を殺していたため、カエサルとアウグストゥスの血筋はここに途絶えた。

年 代 王 朝 皇 帝
前27年~ ユリウス・クラウディウス朝 アウグストゥス ティベリウス カリグラ
クラウディウス ネロ

皇帝の年Year of Four Emperor

帝位継承戦争

ローマ

元老院から皇帝に推挙され、ローマに帰還した皇帝ガルバは、失策を重ねてローマ社会での支持を失い、ゲルマニア総督ウィテッリウスの皇帝擁立に向けた反乱がゲルマニアで勃発すると、ピソを養子にして後継者にしたが、ガルバの協力者で後継者の座を期待していたオトの支持を失い、オトはガルバとピソの2人を殺して皇帝に即位した。
皇帝オトは、ローマに進軍していたゲルマニア総督ウィテッリウスとクレモナ近郊で戦闘となり、緒戦で敗北するとあっさりと自殺した。
ローマへ入城し、元老院に帝位を認めさせた皇帝ウィテッリウスであったが、軍団から担がれただけで、明確な政策方針も持っておらず、ゲルマニア兵の素行の悪さや、先帝オトについたドナウ軍団を処刑するなど、ローマ市民からの人気も急激に低下し、シリア属州でユダヤ戦争の指揮を執っていた将軍ウェスパシアヌスが帝位に名乗りを上げると、各地でウェスパシアヌスを皇帝として支持する軍団が現れた。
シリア総督ムキアヌスの支持も取り付けたウェスパシアヌスは、クレモナ近郊でウィテッリウスの軍を撃破すると、ローマを占拠してウィテッリウスを殺害し、元老院から皇帝に承認され、ローマ帝国の帝位継承内戦は終焉した。

年 代 王 朝 皇 帝
68年~ ガルバ オト ウィテッリウス ウェスパシアヌス

フラウィウス朝Flavius

フラウィウス円形闘技場

ローマ

69年に即位した皇帝ウェスパシアヌスは、フラウィウス朝を創始し、ユリウス・クラウディウス朝の皇帝に与えられていたのと同じ権限を元老院に制定させる一方、元老院に与えられていた皇帝弾劾権を否定し、政権交代は原則的に皇帝の死によってのみ行われるようにした。
彼は破綻した財政の健全化のために様々な間接税を設ける政策を執り行い、ローマ市民の「パンと見世物」の要求に応えるため、ローマに本格的な剣闘士競技場「フラウィウス円形闘技場(コロッセオ)」の建造を開始、大規模工事のため完成したのは彼の死の翌年であった。
79年に父の後を継いで即位した皇帝ティトゥスは、ローマ市民からの人気も高く、元老院との関係も良かった。
ヴェスヴィオ火山の噴火で山麓の都市ポンペイが壊滅したり、ローマが3日間延焼し続ける大火災が発生した際は、自ら精力的に被災地の救済にあたっていたが、最中の81年に熱病で死亡し、わずか2年の治世でその生涯を終えた。
81年に即位した弟の皇帝ドミティアヌスは、穏健な治世で始まったが次第に暴君へと変貌し、ユダヤ人やキリスト教の迫害、元老院や騎士階級に公然と敵意を示して死刑にするなど、先帝2人の善良な皇帝とは対照的に暴虐な皇帝となり、96年に対立していた元老院の計画により暗殺され、後継ぎがいなかったため、フラウィウス朝は断絶した。

年 代 王 朝 皇 帝
69年~ フラウィウス朝 ウェスパシアヌス ティトゥス ドミティアヌス

ネルウァ・アントニヌス朝Nerva・Antoninus

五賢帝時代

ローマ

96年に元老院の推挙で即位した皇帝ネルウァは、その経緯から軍隊とローマ市民からの支持が乏しく支持を得るために奔走したが、軍隊の掌握は思うようにできず、自らの皇帝の権威が低いことを痛感した。
軍隊の支持を取り付ける以外に生き残る方法はないことを悟り、軍隊から絶大な支持を集めていた、将軍トラヤヌスを後継者に指名した。
98年に即位した皇帝トラヤヌスは、初の属州生まれの皇帝となった。軍人育ちで、若くして軍団の指揮官となり人望が厚く、内政では元老院の意を尊重し、積極的な外征でダキア王国とナバテア王国を征服、パルティア王国からアルメニア、メソポタミア、アッシリアを奪取し、「帝国史上最大の領土」へ拡大させた。
また、ローマの都市整備のため、トラヤヌス広場やトラヤヌス浴場、ローマ水道の建造などを行い、軍事的才能だけでなく、元老院をしっかりと掌握して内政を執り行い、優れた君主として「至高の皇帝」と称される尊敬を受けた。
117年に先帝トラヤヌスから後継者に指名された皇帝ハドリアヌスが即位すると、領土拡大政策から帝国安定政策へと転換し、パルティア王国と和平してアルメニア、メソポタミア、アッシリアから撤退し、東方国境を安定させた。
さらに、帝国の防衛力を整備し、ブリタンニア北部に「ハドリアヌスの長城」と呼ばれる防壁を建造したり、在位中のほとんどを帝国各地への巡回に費やし、自ら各地を見聞して統治を行い、広大な帝国領土の平和維持に尽くした。
ローマでは神々に守られた「パンテオン」の再建や自ら設計した「ウェヌスとローマ神殿」の建造などを行った。
皇帝ハドリアヌスの晩年、彼が後継者に予定していたルキウス・アエリウスが急死し、138年に新たに後継者に指名され即位した皇帝アントニウス・ピウスは、内政の改革や財政の健全化に努め、学問や芸術・文化も熱心に保護し、大きな問題もなく治世を全うし、「最良の君主」と称され、「ピウス(慈悲深き)」の添え名をつけて呼ばれた。
161年に先帝アントニウス・ピウスの養子のマルクス・アウレリウス・アントニヌスとルキウス・ウェルスの二人が皇帝となり、169年にルキウス・ウェルスが死亡して単独となり、ストア派哲学者のため「哲人皇帝」と称された。
彼はローマ市民に寛容と慈愛を示し、善政を施したが、パルティア王国やゲルマン人の侵攻が激しくなり、自ら出征を繰り返して各地を転戦し、最後は陣中で亡くなったが、彼は暗愚な息子コンモドゥスを後継者に指名していた。
180年に即位した皇帝コンモドゥスは悪政の末に192年に暗殺され、ネルウァ・アントニヌス朝もここで途絶えた。
これまでの優秀な人物を養子にして後継者とする慣行をやめたこと、皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの唯一の失政の結果、ローマ帝国の全盛期「五賢帝時代」は終焉し、帝国は再び乱れ、衰退へと導くこととなった。
同時に、ローマ帝国が実現した、戦争が絶えなかった地中海世界の平和「パックスロマーナ」の終焉でもあった。

年 代 王 朝 皇 帝
96年~ ネルウァ・アントニヌス朝 ネルウァ トラヤヌス ハドリアヌス アントニヌス・ピウス
マルクス・アウレリウス・アントニヌス ルキウス・ウェルス
コンモドゥス

五皇帝の年Year of Five Emperor

二度目の帝位継承内戦

ローマ

193年に即位いた皇帝ペルティナクスは、先帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスを手本にした緊縮財政と文化統制を行ったが、急激な改革が元老院やローマ市民の不和を招き、また、自らの支持基盤である近衛隊にも冷遇したため、在位83日目に反乱兵に殺害された。
この後、近衛隊による前代未聞の「帝位競売」が行われ、お金で近衛隊を味方につけ、軍事的な圧力で元老院に帝位を承認させて即位した皇帝ディディウス・ユリアヌスは、当然の如く元老院とローマ市民の反感を強め、「帝位の簒奪者」と陰口をたたかれ、統治も思うように進まず、帝国内で野心を抱くシリア総督ペスケンニウス・ニゲル、ブリタニア総督クロディウス・アルビヌス、パンノニア総督セプティミウス・セウェルスの三人が反旗を翻し、地理的に最も近いセウェルスがアルビヌスと手を結んでローマに進軍してくる過程で、近衛隊に裏切られて暗殺され、元老院の支持を得て皇帝セウェルスが即位した。
皇帝セウェルスは、アルビヌスを副帝にして後顧の憂いを断ち、もう一人の皇帝僭称者であるペスケンニウスを討伐し、皇帝の権力を揮い始めると、危機感を強めたアルビヌスが196年に皇帝を僭称して内乱となったが、勝利を収めて皇帝僭称者を全て打倒し、敗れたアルビヌスは自ら命を絶ち、ローマ帝国の二度目の帝位継承内戦は終焉した。

年 代 王 朝 皇 帝
193年~ ペルティナクス  ディディウス・ユリアヌス
セプティミウス・セウェルス ペスケンニウス・ニゲル
クロディウス・アルビヌス

セウェルス朝Severus

軍人皇帝時代の予兆

ローマ

193年に即位した皇帝セプティミウス・セウェルスは、強力な軍事力を背景に元老院から承認を得て、新たにセウェルス朝を創始した。
元老院、ローマ市民、軍隊の三権を尊重した歴代王朝と比較して軍事独裁的な側面が強く、この後の軍人皇帝時代到来の前兆でもあった。
皇帝セウェルスはパルティア王国などとの対外戦争で多くの勝利を重ねる一方で、元老院やローマ市民を無視する傾向があり、軍備拡大を推し進めた結果、軍事費が増大して帝国の財政に重い負担を残した。
209年に父から共同皇帝として指名された皇帝カラカラと皇帝ゲタが後を継いだが、独占欲が強かった皇帝カラカラは弟ゲタを殺害して帝位を独り占めにし、様々な暴政を繰り広げて、ローマ帝国史上に残る暴君の一人とされる一方、全属州の市民にローマ帝国の市民としての権利と義務(市民権)を与える「アントニヌス勅令」を決定し、ローマ帝国が単なる膨張した国家ではなく、正式に「世界帝国」となった。
また、ローマに巨大な公共浴場「カラカラ浴場」を建設したことでも有名であるが、パルティア王国への遠征途上の217年に部下に暗殺され、彼の親衛隊長官マクリヌスが帝位を簒奪したことで、一時的にセウェルス朝は途絶えた。
皇帝マクリヌスは、セウェルス朝の復興を画策した先帝カラカラの親族勢力の反乱で殺害され、皇帝ヘリオガバルスが即位すると、これまでの暴君を超えるローマ帝国史上最悪の君主として君臨し、太陽神「エル・ガバル」をローマ帝国の主神とする急進的な宗教改革や倒錯的かつ退廃した性生活など、皇帝ヘリオガバルスに対する不満と怒りが高まり、軍隊からも忠誠を拒まれ、最後は捕えられて処刑され、ローマ市民に切り刻まれてテヴェレ川に捨てられた。
222年に先帝ヘリオガバルスの従弟の皇帝アレクサンデル・セウェルスが即位すると、破綻寸前の帝国の財政を建て直すため緊縮財政政策を執り行ったが、ササン朝ペルシアの脅威にも軍事行動を控える平和路線や、ゲルマニアでの軍事作戦に消極的な態度を繰り返したことで、軍隊の不興を買って235年に殺害され、セウェルス朝は断絶した。

年 代 王 朝 皇 帝
193年~ セウェルス朝 セプティミウス・セウェルス カラカラ ゲタ
ヘリオガバルス アレクサンデル・セウェルス
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