~遥かなる悠久の歴史遺産~
  • 心に刻まれた旅の思い出
  • まだ見ぬ美しい世界へ
かつての栄華に思いを馳せて.....
文明の繁栄と夢の跡

目次

グラックス兄弟の改革
スパルタクスの反乱
第一回三頭政治
ローマ内戦
カエサル独裁政治
第二回三頭政治
帝政ローマ

グラックス兄弟の改革Reform of Gracchus Brothers

共和政ローマの維持

ローマ

ポエニ戦争でカルタゴに勝利したが、長期に渡る戦争は共和政ローマの都市国家の原則に動揺を与える、深い傷跡を残すことになった。
平民の大部分である自由農民は、重装歩兵として戦力となり、共和政ローマを支えた市民であったが、長期の戦争で耕地は荒廃し、領土拡大で獲得した土地から、奴隷と穀物が大量に流れ込むようになった。
奴隷の流入は大土地所有者の経営を拡大させ、自由農民の土地が次々と併合され、穀物の流入は農作物の価格を下落させ、自由農民の利益を少なくするなど、自由農民が次々と没落する事態に陥った。
そんな中、共和政ローマの維持を図ろうと、スキピオの娘の息子の「グラックス兄弟」が改革に立ち上がったが、紀元前133年に護民官となった兄ティベリウスの改革は保守派の元老院の反対に遭って殺害され、紀元前123年に護民官となった弟ガイウスの改革も元老院の反対に遭って自殺に追い込まれ、グラックス兄弟による改革は頓挫した。
この結果、共和政ローマの再建は困難となり、元老院を中心とした寡頭政治体制の維持を図る「閥族派」と平民層の支持を受けた元老院とは対立する政治的立場の有力者の「平民派」の政争に始まる、内乱の1世紀に突入した。

スパルタクスの反乱Revolt of Spartacus

ローマ史上最大の奴隷反乱

ローマ

内乱の1世紀に突入したローマでは、紀元前91年の「同盟市戦争」、紀元前88年の「ミトリダテス戦争」など、各地で反乱が続いていた。
イタリア半島南部の重要都市カプアには剣闘士養成所や闘技場があり、「剣闘士奴隷(グラディエータ)」はローマ人の娯楽のために、仲間や猛獣と殺し合いをさせられ、敵意を抱いて脱走を企てていた。
紀元前73年春、トラキア出身の剣奴「スパルタクス」を中心に200人が脱走計画に加担し、約70人が脱走でき、ベスビオ山に立て籠った。
雄弁で才能豊かなスパルタクスに、近隣の奴隷が徐々に加わり、反乱軍の規模は拡大の一途を辿り、元老院が派遣した討伐軍を次々と打ち破り、南イタリアの数都市を占領し越冬した。
紀元前72年春、反乱軍は軍事訓練と充実装備で強力な軍隊に成長し、故郷トラキアでローマと戦っている仲間と合流するため、アルプス超えを目指して北上し、討伐軍を撃破しながらポー河の平原に出た頃、12万にまで膨らんだ。
しかし、アルプス越えの準備を始めた頃、故郷トラキアがローマに制圧されて帰る故郷を失い、アルプス越えを断念して南のシチリアへ向かうが、新たな討伐軍の司令官クラッススの戦略により、反乱軍はレギウムに包囲された。
さらに、スペイン遠征から将軍ポンペイウス部隊、小アジア遠征から将軍ルクルス部隊が帰還し、反乱軍の立場は絶望的となり、スパルタクスは局面打開のため、クラッスス本陣に突入して果敢に戦うも死亡し、反乱軍も壊滅して、捕虜6千人はアッピア街道に磔にされ、結局、奴隷は故郷に帰ることも、ローマから逃れることもできなかった。
この一人の偉大な剣奴に率いられた反乱は、最終的には鎮圧されたが、ローマの社会に大きな衝撃と影響を与えることとなり、この反乱をきっかけに奴隷の待遇が大幅に改善され、彼の死後、奴隷は彼から大きな「恩恵」を受けた。

第一回三頭政治1st Triumvirate

三人による寡頭政治

ローマ

グラックス兄弟の改革の後、政権を握った閥族派のスッラが死亡すると、スパルタクスの反乱を鎮圧した「クラッスス」、スペイン遠征でセルトリウスの反乱を鎮圧し、北部へ逃亡を図ったスパルタクスの反乱の残党を全滅させた「ポンペイウス」、この二人が頭角を現した。
この二人は国民的英雄となり、紀元前70年に執政官に就任した。
紀元前67年、ポンペイウスは地中海の海賊を一掃し、翌年に元老院から東方遠征の指揮権を、ルクルスに代わり委ねられると、小アジアの「ミトリダテス戦争」を平定し、アルメニア王国を保護国化、紀元前64年にセレウコス朝シリアを属州にし、紀元前63年にさらに南下してユダヤも征服し、軍事能力の高さを示した。
この東方遠征により、ローマの領土は黒海沿岸からカフカス、シリア・パレスティナまで広がり、ポンペイウスの名声と権威はこれまで以上となったが、独裁官就任を恐れた元老院は黙っておらず、彼から軍事権を取り上げた。
この時、ポンペイウスに手を差し伸べたのが「カエサル」で、紀元前60年に彼の仲介で、クラッススとともに三人の間の利害を一致させ、実力で元老院を押さえつけ、三人で権力を分立した寡頭政治「第一回三頭政治」が始まった。
紀元前58年、カエサルはガリア総督へ就任すると、数度に渡るガリア遠征でガリアのほぼ全域をローマの領土に編入するなど、目覚しい実績を上げ、ローマ市民からの人気も高まっていたが、紀元前53年、クラッススがパルティア王国との戦争で死亡したことをきっかけに、権力挽回のチャンスと捉えた元老院は、ポンペイウスを元老院側に引き込み、カエサルのガリア総督の任期切れとともに、彼の軍隊を解散するように要求し、三頭政治は事実上崩壊した。

ローマ内戦Rome Civil War

賽は投げられた!

ローマ

ガリア総督の任期切れ後、執政官への立候補を考えていたカエサルであったが、元老院はイタリア国外での立候補禁止と軍隊を解散しない限り立候補を許可しない内容の「元老院最終勧告」を決議した。
紀元前49年、ローマに一人で帰還することは自殺行為に等しいカエサルは、命令に従わずに軍隊を率いてローマへの進撃を始め、ルビコン川を渡る時の彼の言葉「賽は投げられた!」はあまりに有名である。
ルビコン川を渡りイタリア半島を南下するカエサルに対して、ポンペイウスは無防備なローマを離れ、カエサルと戦うため、かつて自らが征服した東方属州へ渡って軍を再編するためギリシアに向かい、多くの元老院議員もポンペイウスに従った。
紀元前48年7月、カエサル軍は「デュッラキウムの戦い」で元老院派軍に敗れて後退したが、ポンペイウスは寄せ集めの自軍がカエサルの精鋭軍に勝利したと信じられず、追いかけて討伐を行わなかったために勝機を失い、8月の「ファルサルスの戦い」でポンペイウス率いる元老院派軍はカエサル軍に敗れ、ポンペイウスはエジプトへ逃れた。
この頃のプトレマイオス朝エジプトでは、クレオパトラ7世と弟プトレマイオス13世が共同統治していたが、ローマと同盟を結んでエジプトを存続させる考えの姉に反対するプトレマイオス13世は、紀元前48年9月、エジプトに逃げてきたポンペイウスを独断で殺害し、数日後エジプトに到着したカエサルは、その地で彼の死を知ることとなった。

カエサル独裁政治Caesar Dictatorship

ブルートゥス、お前もか・・・

ローマ

紀元前48年、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世は、ポンペイウスを追いかけてエジプトに来たカエサルを誘惑し、二人は女王と対立していた共同統治者の弟プトレマイオス13世を倒した。
クレオパトラ7世が実権を握ったエジプトに平和が訪れ、夫婦となった二人の間に、カエサルの唯一の息子カエサリオンが生まれた。
紀元前47年、ローマからの帰還要求に応え、途中小アジアを平定してからローマに帰還したカエサルは、ポンペイウス死後も北アフリカを拠点にしていた元老院派やイベリア半島のポンペイウスの残党を制圧して、反対勢力を全壊させて権力を集中させ、ローマ帰還後にクレオパトラ7世を連れて壮麗な凱旋式を行った。
紀元前45年、圧倒的な軍事力を背景にカエサルは「終身独裁官兼最高司令官(インペラトール)」に就任し、元老院を無視した事実上の独裁政治を始め、属州の政治改革、太陽暦(ユリウス暦)の制定、貧民救済などに取り組んだ。
このカエサル独裁政治に反感を持ち、共和政崩壊の危機感を抱いた共和主義者は、秘かにカエサルの暗殺を企んだ。
そして事件は紀元前44年3月15日の元老院会議場で起こり、元老院の後押しを受けたブルートゥスやカッシウスらの共和主義者により、カエサルは一斉に滅多刺しにされ、信頼していた養子ブルートゥスに裏切られたカエサルは、「ブルートゥス、お前もか・・・」と言葉を残して死亡し、「帝政」に惹かれたカエサルの野望は、ここに潰えた。

第二回三頭政治2nd Triumvirate

無名の青年から後継者へ

ローマ

カエサルの死後、部下の「アントニウス」と「レピドゥス」がローマで権力を握ったが、彼の遺言で後継者に指名されたのは、カエサルの妹の娘アティアの子にして養子の「オクタヴィアヌス」であった。
紀元前43年、この三人で権力を分立した寡頭政治「第二回三頭政治」が始まり、カエサル暗殺者逮捕を名目に元老院派の排除を行った。
さらに、紀元前42年の「フィリッピの戦い」で、残るカエサルの仇敵であるブルートゥスとカッシウスに勝利し、敗れた二人は自害した。
紀元前40年、三人の支配地域の取り決めが行われ、オクタヴィアヌスはヨーロッパ、アントニウスはエジプト・ギリシア・西アジア、レピドゥスはアフリカを支配することとなった。
しかし、この三頭体制は元老院派や共和派に対抗するための同盟関係の側面が強く、政敵が排除されると次第に勢力を競い合うようになり、紀元前36年にレピドゥスはオクタヴィアヌスの打倒を図って失敗し、表舞台から失脚した。
一方のエジプトに向かったアントニウスは、オクタヴィアヌスの姉オクタヴィアを妻としていたが、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世の魅力に取りつかれ、妻と離婚してクレオパトラ7世と子供を作り、さらにカエサルとクレオパトラ7世の子カエサリオンをカエサルの後継者として承認し、オクタヴィアヌスの反感を買った。
このため、両者の対立は決定的となり、オクタヴィアヌスはプトレマイオス朝に対して宣戦布告し、紀元前31年の「アクティウムの海戦」で、オクタヴィアヌス軍がアントニウス・プトレマイオス朝の連合軍に勝利を収めた。
エジプトに敗走した二人は、その後も追撃され、紀元前30年、アントニウスは自害、直後にクレオパトラ7世も自害して、プトレマイオス朝は滅亡し、エジプトを征服したオクタヴィアヌスは、カエサリオンを捕えて殺害した。

帝政ローマRoman Empire

オクタヴィアヌスの野望

ローマ

紀元前29年、内乱を終結させローマに凱旋したオクタヴィアヌスは、元老院から「プリンケプス(第一人者)」の称号を贈られた。
カエサルを暗殺した共和主義者を滅ぼし、内乱の権力闘争も勝ち抜いたオクタヴィアヌスは、最後の野望「カエサルが目指した帝政構築」に向けて、カエサルとは異なった方法で新たな戦いへと歩み始めた。
オクタヴィアヌスは、表面上は共和政を尊重し、カエサルが命を落とす原因となった独裁官には就任せず、その代わり様々な役職を兼任することで、実質的に政治・軍事の権力を握り、内政を執り行った。
紀元前27年、突如オクタヴィアヌスは元老院で全権力を元老院に返還し、共和政復帰を宣言、引退して一私人に戻ると演説を行うと、それを讃えて元老院は「アウグストゥス(尊厳者)」の称号と、国の全権の掌握を懇請した。
オクタヴィアヌスは数度に渡り辞退した上で承諾し、「インペラトル・カエサル・アウグストゥス」と名乗った。
一度全権力を返還し、元老院から再び譲渡される、まさにオクタヴィアヌスの巧妙な思惑通りとなり、共和政との駆け引きの中で、「元首政」という妥協点を見出し、実質的な皇帝となったアウグストゥスの勝利の瞬間であった。
これにより共和政ローマは終焉し、帝政ローマへと移行し、ここに初代ローマ皇帝「アウグストゥス」が誕生した。
彼は皇帝を頂点とする中央集権体制を樹立し、身分制の確立、属州の人口調査と徴税の徹底、都市の自治拡大、姦通罪の設定、贅沢の禁止など大胆な改革を行い、「ローマを煉瓦の町から大理石の都」へと華やかで美しい姿に整備するため壮麗な建造物を建築するなど、内政の充実に努め、「永遠の都ローマ」と称される平和な時代を築き上げた。
14年8月19日、帝国の礎を築いた皇帝アウグストゥスは、妻リウィアに看取られながら、「私は自分の喜劇を、最後まで見事に演じきったと思わないか?」と言葉を残して亡くなり、後にカレンダーの8月に彼の名前がつけられた。
後継者に誰よりも彼を選んだカエサル、その野望を実現したアウグストゥス、二人で勝ち取った「帝政」であった。

年 代 王 朝 皇 帝
前27年~ ユリウス・クラウディウス朝 アウグストゥス
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