~遥かなる悠久の歴史遺産~
  • 心に刻まれた旅の思い出
  • まだ見ぬ美しい世界へ
かつての栄華に思いを馳せて.....
文明の繁栄と夢の跡

目次

エラム王国
メディア王国
アケメネス朝ペルシア
パルティア王国
ササン朝ペルシア

エラム王国Elam

チョガ・ザンビール

エラム王国

紀元前2700年頃、エラム人がイラン南西部の「スサ」を中心に築いた王国で、メソポタミアと隣接のため、領土争いの関わりが頻発した。
紀元前2004年頃にメソポタミアに侵攻して、ウル第三王朝を滅ぼしたが、国力の衰退に伴い影響力が低下し、カッシート王国に服属した。
その後、再び列強として頭角を現し、紀元前1160年頃にカッシート王国を滅ぼし、その際、バビロンに祀られていた「マルドゥク神像」や「ハンムラビ法典」など、多くの貴重な財宝をスサに持ち帰った。
この時に持ち帰ったハンムラビ法典が、20世紀にスサで発見された。
しかし、紀元前1100年頃にイシン第二王朝のネブカドネザル1世の侵攻で大打撃を被り、再び衰退することとなり、ネブカドネザル1世によりマルドゥク神像は奪還され、彼はバビロンの信仰神であるマルドゥク祭祀を復活させた。
その後は、アッシリア帝国とバビロニアの争いにバビロニアを支援する形で度々介入したが、紀元前647年にアッシリア帝国のアッシュール・バニパル王の侵攻を受けて、スサが陥落し、大国としてのエラム王国の歴史は終わりを告げ、最後は紀元前539年にキュロス2世率いるアケメネス朝ペルシアの支配下に置かれ、歴史から姿を消した。
紀元前1250年頃にエラムの王により建造されたジッグラト「チョガ・ザンビール」が、現在のイラン南西部のアフワズ郊外にあり、メソポタミア起源のジッグラトを、バビロニアから文化的影響を受けたエラム王国が建造した。

メディア王国Media

臣下の裏切り劇

メディア王国

紀元前715年頃、メディア人のデイオケスがイラン北西部の「エクバタナ」を都に築いた王国で、都には七重の城壁が張り巡らされた。
紀元前714年にアッシリア帝国と対抗するため、ウラルトゥ王国と同盟を結んで戦うが、強力な軍事力の前に敗れ、不遇の時代が続いた。
しかし、紀元前625年にアッシリア帝国がカルデア人にバビロンを奪取されて弱体化すると、3代目の王キュアクサレス2世は、新バビロニア王国と同盟を結び、紀元前612年にアッシリア帝国を滅ぼし、さらに領土を拡大して、四国鼎立時代の一角を占める強国となった。
しかし、紀元前550年にメディア王国に服属していたペルシアのキュロス2世が反乱を起こし、アステュアゲス王は将軍ハルパゴスを討伐に向かわせたが、王に憎しみを抱いていたハルパゴスの「裏切り」により全軍崩壊し、キュロス2世に首都エクバタナまで進軍され、最後の王アステュアゲスは捕えられて処刑され、メディア王国は滅亡した。

アケメネス朝ペルシアAchaemenes

大帝国の誕生

アケメネス朝ペルシア

紀元前8世紀、ペルシア人は族長アケメネスに率いられイラン高原南部に移り住み、この時のペルシアはメディア王国に服属していた。
紀元前550年、キュロス2世が反乱を起こしてメディア王国を滅ぼし、続いてリディア王国、新バビロニア王国を征服して、「アケメネス朝ペルシア」を建国し、バビロン捕囚されていたユダヤ人を解放した。
紀元前525年、息子のカンビュセス2世が「ペルシウムの戦い」でエジプト(第26王朝)を併合し、古代オリエント世界の統一を果たした。
その後、王位を巡り内乱状態となるが、ダレイオス1世が内乱を鎮めて国内秩序を回復し、「ベヒストゥーン碑文」として自らの即位の経緯とその正当性を刻んだ記念碑を残した。
彼の時代に領土はエーゲ海からインダス川にまで拡大し、帝国は最盛期を迎え、帝国の支配制度を整備した。
まず全国を20の州に分けて総督(サトラップ)を派遣し、さらに監察官を派遣して総督を監督・監視する「王の目」「王の耳」による中央集権体制の構築、広大な領土を貫く「王の道」の整備、貨幣による税制の構築などを行った。
帝国には複数の都があり、代表的なのは「スサ」で、彼が建設した「ペルセポリス」は儀式用の壮麗な都であった。
また、帝国の支配は比較的寛容で、ペルシア人の宗教は「ゾロアスター教」であるが、異民族の風習・宗教は尊重するなど、アッシリア帝国とは正反対の統治を行い、約200年間に渡りオリエントを支配したが、紀元前331年、ダレイオス3世が「ガウガメラの戦い」でアレクサンドロス3世に敗れ、紀元前330年に大帝国もついに終焉を迎えた。

パルティア王国(アルサケス朝パルティア)Parthia(Arsaces)

遊牧民族が築いた大国

パルティア王国

紀元前248年、中央アジアのイラン系遊牧民のパルニ族の族長アルサケス1世が、セレウコス朝シリアから独立し、何度か都を変更しながら、最終的に「ヘカトンピュロス」を都として建国した王国である。
創建初期は、中央アジアのカスピ海南東の地域の一角を占める勢力であったが、紀元前171年にミトラダテス1世が即位すると、セレウコス朝シリアの国力衰退もあり、メソポタミア方面に飛躍的に領土を拡大させ、その後インド北西部も征服するなど、王国の基盤を築いた。
紀元前123年、ミトラダテス2世が即位すると、メソポタミア北部を征服し、さらに小アジアのアルメニア王国も服属させ、メソポタミアからインダス川までの広大な領土を支配した。
地方の一勢力から覇を唱える大国へ成長した王国は、この時代に最盛期を迎え、都を「クテシフォン」に遷都した。
ミトラダテス2世の死後は、王位継承を巡り内紛が勃発し、さらに紀元前64年にセレウコス朝シリアがローマに滅ぼされると、ローマと国境を接するようになり、この後、ローマと八度に渡る「パルティア戦争」が勃発した。
約270年に渡る王位継承の内紛とローマとの戦争で、国内の混乱は一層激しさを増し、全土に反乱が多発し、これに乗じたペルシア王アルダシール1世が、時の王アルタバヌス4世を敗り、226年にパルティア王国を完全に滅ぼした。

ササン朝ペルシアSasan

農耕民族が築いた大帝国

ササン朝ペルシア

226年、イラン系農耕民のペルシア王アルダシール1世が、王位継承の内紛とローマ帝国との戦争で疲弊したパルティア王国を征服し、都を「クテシフォン」に定めて、「ササン朝ペルシア」を建国した。
イラン高原から西アジアにかけての一帯の支配権を獲得したアルダシール1世は、アケメネス朝ペルシアの後継者として「諸王の王」を自称し、アケメネス朝の再興を掲げ、「ゾロアスター教」を国教とした。
瞬く間にかつてのパルティア王国の領土の大半を支配下に置く帝国となり、以降はローマ帝国と断続的に戦争を繰り返すこととなった。
第2代のシャープール1世が即位すると、260年に「エデッサの戦い」でローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕える大戦果を上げ、壁画に彼の前に跪くヴァレリアヌスの絵を彫らせ、インドのクシャーナ朝も征服し、大帝国を築き上げた。
313年にローマ帝国でキリスト教が国教となると、領土争いだけでなく、ゾロアスター教とキリスト教の宗教戦争の様相も呈するようになり、さらに425年以降は中央アジアの遊牧国家エフタルの侵入に悩まされるようになった。
531年に即位したホスロー1世は、文化の保護に力を入れ、ビザンティン帝国で異端とされたギリシア哲学を保護して発展させ、532年にビザンティン帝国の皇帝ユスティニアヌスと、毎年3万枚の金貨を受け取る条件で、50年の和平条約を締結して休戦すると、東方の突厥と結んで長年の懸案だったエフタルを滅ぼして中央アジアの領土を拡大、さらにアラビア半島南端のイエメンを征服し、インドとの間のアラビア海の交易路を抑え、帝国は最盛期を迎えた。
また、帝国の国教となり、長く口承で伝えられてきた、ゾロアスター教の聖典「アヴェスター」が編纂された。
彼の死後に即位した息子ホルミズド4世はクーデターで殺され、孫のホスロー2世が即位すると、ビザンティン帝国に侵攻し、614年にエルサレムを征服、その際に「聖墳墓教会」からイエスが磔になった「聖十字架」を持ち帰った。
続いてエジプト、アナトリアを征服してコンスタンティノープルを包囲する攻勢を見せたが、628年にビザンティン帝国の皇帝ヘラクレイオスの反撃により首都クテシフォンが包囲され、聖十字架は奪い返されエルサレムに戻った。
最後の王ヤズデギルド3世が即位した頃には、ビザンティン帝国との長年に渡る抗争で国力は衰退し、両者の泥沼の戦いの間にアラビア半島に勃興したイスラム帝国が周囲にジハード(聖戦)を展開し、636年の「カーディシーヤの戦い」、642年の「ニハーヴァンドの戦い」で大敗し、再起を計り東方や北方へ逃亡を続け、651年に逃亡先のホラーサーンのメルヴの総督の裏切りで殺害され、農業社会を基本とした専制君主政のササン朝ペルシアは滅亡した。

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