~遥かなる悠久の歴史遺産~
  • 心に刻まれた旅の思い出
  • まだ見ぬ美しい世界へ
かつての栄華に思いを馳せて.....
文明の繁栄と夢の跡

目次

ヒッタイト王国
ミタンニ王国
カッシート王国
イシン第二王朝
アッシリア帝国
リディア王国
新バビロニア王国

ヒッタイト王国Hittites

アナトリアの強国

ヒッタイト王国

紀元前1680年頃、ヒッタイト人のラバルナ1世がアナトリアにヒッタイト古王国を築き、「鉄の武器」による強力な大国へと歩み始めた。
ムルシリ1世の時代にメソポタミアへ遠征し、紀元前1595年頃にサムス・ディタナ率いる古バビロニア王国を滅ぼし、鉄器をもたらした。
しかし、凱旋後まもなくこの王が暗殺されると、約50年に渡る権力闘争が勃発し、紀元前1525年頃のテリピヌ王の時代に一旦終息した。
紀元前1500年頃にヒッタイト中王国が成立するも平穏は続かず、再度権力闘争が勃発し、紀元前1430年頃にヒッタイト新王国が成立する。
紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世がミタンニ王国を制圧し、紀元前1274年頃、ムワタリ王はシリアに進出してきた、ラムセス2世率いるエジプト軍と「カデシュの戦い」となるが、最終的に世界最古の平和条約が結ばれた。
強国として名を馳せたヒッタイト王国も、紀元前1190年頃に謎の民族である「海の民」によって滅ぼされた。

ミタンニ王国Mitanni

古バビロニア王国滅亡後の北部の王国

ミタンニ王国

紀元前1550年頃、フルリ人がメソポタミア北部の「ワシュカンニ」を都として築いた王国で、周辺のフルリ人を掌握して勢力を拡大し、東はアッシリアを征服し、西は北シリアからウガリトなど地中海沿岸都市まで征服し、エジプトやバビロニアと並ぶ勢力まで上り詰めた。
周囲の国との間で政略結婚を繰り返し、のちにヒッタイト王国やアッシリア帝国の属国となった時期も含めて、約300年間存続した。
古代エジプト第18王朝のファラオで、アテン神を崇拝する宗教改革「アマルナ改革」を行ったことで有名なアメンホテプ4世(後にアクエンアテンと改名)の正妃で、古代エジプトの三大美女の一人である「ネフェルティティ」は、ミタンニ王国の王女でエジプトに嫁いだといわれており、謎を秘めた未完成の美しい彫刻「ネフェルティティの胸像」は有名である。

カッシート王国Kassites

古バビロニア王国滅亡後の中南部の王国

カッシート王国

紀元前1595年頃、古バビロニア王国がヒッタイト王国により滅ぼされると、カッシート人が混乱したバビロニアにおける勢力を拡大し、紀元前1475年頃、カッシート王ウラム・ブリアシュが海の国第一王朝(バビロン第二王朝)を滅ぼし、バビロニアを統一して建国した。
「バビロン第三王朝」とも呼ばれ、バビロニアで最も長く続いた王国で、エジプトやヒッタイト王国、ミタンニ王国と並ぶ勢力を誇った。
紀元前1400年頃以降、強大化したアッシリア帝国との関係悪化や東のエラム王国と紛争が生じ始め、度重なる戦闘で、領土も縮小の一途を辿り、バビロン陥落時には、バビロンに祀られていた「マルドゥク神像」や「ハンムラビ法典」など、多くの貴重な財宝がエラム王国のスサに持ち去られ、その後、王国復活を目指すもついに叶わず、紀元前1155年頃に滅亡した。

イシン第二王朝2nd Dynasty of Isin

マルドゥク神像の奪還

イシン第二王朝

紀元前1155年頃、カッシート王国が滅亡した後、マルドゥク・カビト・アヘシュがバビロニアで建国した王朝で、「バビロン第四王朝」とも呼ばれ、歴代の王はイシンではなく「バビロン」を拠点にした。
第4代のネブカドネザル1世は、歴代の王と同じくエラム王国との戦いに集中し、紀元前1100年頃、エラム王国に大打撃を与えることに成功し、カッシート王国のバビロン陥落時に、エラム王国が持ち去った、バビロンの主神「マルドゥク神像」を奪還し、バビロンの信仰神である「マルドゥク祭祀」を復活させる大事を成し遂げ、このことはバビロニアでは宗教的に重要な意味を持ち、彼の遠征とマルドゥク神の帰還に関する文学作品が多数残されている。
その後、アッシリア帝国の勢力拡大で圧迫を受け、紀元前1025年頃、イシン第二王朝は混乱状態に陥り滅亡した。

アッシリア帝国Assyria

オリエントの統一

アッシリア帝国

紀元前2000年以前から、ティグリス川上流の都市「アッシュール」を中心に交易活動をしていた、アッシリア人が築いた帝国である。
当初はミタンニ王国に服属していたが、その後独立を果たし、紀元前900年頃から「鉄の武器」と「騎兵隊」により急速に勢力を伸ばし始め、紀元前722年頃からのサルゴン2世の時代に飛躍的に領土を拡大して、オリエントの大半を統一、さらにアッシュール・バニパル王時代の紀元前663年にエジプトをも征服し、メソポタミアからエジプトに至る古代オリエント世界を最初に統一した世界帝国として君臨した。
アッシュール・バニパル王は、帝国内の産業や経済の掌握のため、首都「ニネヴェ」に「世界最古の図書館」を建設しており、後世、図書館跡から「ギルガメシュ叙事詩」を含む大量の「楔形文字が刻まれた粘土板」が発見された。
オリエントに覇を唱えたアッシリア帝国であったが、強圧的な専制支配を行ったため、最盛期は短く、各地で反乱が頻発し、紀元前612年にカルデア・メディア連合軍により首都ニネヴェが陥落し、紀元前609年に完全に滅亡した。
この後、オリエントは「新バビロニア王国(カルデア王国)」「リディア王国」「メディア王国」「エジプト(サイス朝)」の四国鼎立時代に突入し、再統一は後に大帝国を築く国家が歴史の表舞台に登場するまで待つことになる。

リディア王国Lydia

世界最古の貨幣

リディア王国

紀元前730年頃、リディア人が小アジアの「サルディス」を都に築いた王国で、アッシリア帝国滅亡後の四国鼎立時代の一角を占めた。
首都サルディスはアジアとヨーロッパの商業の要衝路で、ギリシャ人やフリュギア人との交易や「金」の産出で栄え、王国は富を誇った。
特に、紀元前7世紀に世界初の「鋳造貨幣」が造られたことで知られ、後には金銀貨も鋳造され、ギリシャ文化にも大きな影響を与えた。
紀元前585年、東方から新バビロニア王国と共同でアッシリア帝国を滅ぼしたメディア王国が、勝利した勢いそのままに侵入してきたが、戦闘中に発生した日食に両軍が恐れをなしたため、ハリュス川を国境とする合意を結んで休戦した。
紀元前546年、メディア王国を滅ぼしたキュロス2世率いるアケメネス朝ペルシアに敗れ、リディア王国は滅んだ。

新バビロニア王国(カルデア王国)Babylonia(Chaldea)

バビロンの空中庭園

新バビロニア王国(カルデア王国)

紀元前625年、バビロニアで勢力を築いたカルデア人の将軍ナボポラッサルが、アッシリア帝国より「バビロン」を奪取して建国した。
その後、メディア王国と同盟を結び、アッシリア帝国を滅ぼした。
紀元前604年にネブカドネザル2世が即位すると、ネコ2世率いるエジプト軍との「カルケミシュの戦い」で勝利し、領土もメソポタミアやシリア、パレスティナを支配下に収め、王国は最盛期を迎えた。
彼は首都バビロンで大規模な建築事業を行ったことで知られ、中でも「バビロンの空中庭園」や「イシュタル門」の建造は有名で、その他にも「マルドゥク神殿」や「ジッグラト」の規模拡張や再建を行うなど、「世界中で最も美しい国」と称された。
一方、ユダ王国の離反に対して2度の遠征により滅ぼし、ユダヤ人の大量輸送「バビロン捕囚」を行ったことでも有名で、連れて来られたユダヤ人がバビロンの街やジッグラトを見た際に、人間の自己過信と大建造物で威圧する政権の果てを見抜き、憧れではなく文明発展の批判から生まれたのが、「バベルの塔」の物語であると考えられている。
彼の死後は国の統治が不安定となり、紀元前539年、メディア王国とリディア王国を次々と征服し、大帝国への道を歩み始めた、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世にバビロンへ無血入城され、新バビロニア王国は終焉を迎えた。

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