~遥かなる悠久の歴史遺産~
  • 心に刻まれた旅の思い出
  • まだ見ぬ美しい世界へ
かつての栄華に思いを馳せて.....
文明の繁栄と夢の跡

目次

シュメール都市国家
アッカド帝国
ウル第三王朝
イシン第一王朝
ラルサ王朝
マリ王国
古バビロニア王国

シュメール都市国家Sumer

都市文明の興り

シュメール都市国家

紀元前3500年頃からシュメール人により築かれた最古の都市国家で、「ウル」「ウルク」「ラガシュ」など多数の都市国家が形成された。
王を中心とした神権政治が行われ、壮大な神殿や宮殿が建設された。
「シュメールの神々(シュメール神話)」は、この後メソポタミアやオリエントで興る国々で引き継がれ、シュメール起源の神々に融合した各国の神々(神話)の成立において、非常に重要な礎となった。
また、月の満ち欠けに基づく「太陰暦」「七曜制」「60進法」「彩文土器」「楔形文字」などを生み出し、後世に多大なる影響を与えた。
さらに、都市の中心に建造した高い塔の形をした神殿「ジッグラト」は「バベルの塔」、大洪水にまつわる記憶は「ノアの方舟」、地上の楽園「エデンの園」など、旧約聖書に登場する様々な神話や物語にも影響を及ぼしている。
「ギルガメシュ叙事詩」に登場するギルガメシュは、紀元前2600年頃の都市国家ウルクに実在した王である。
都市国家間の戦争が絶えず発生し、統一国家ができることはなく、シュメール人の都市国家は衰退していった。

アッカド帝国Akkad

メソポタミアの統一

アッカド帝国

紀元前2350年頃、シュメールの北部に住んでいたアッカド人のサルゴン王がシュメールを征服し、自らを「全土の王」と称して、メソポタミアにおける最初の統一国家である、「アッカド帝国」を創建した。
サルゴン王はメソポタミア全域に及ぶ中央集権的な国家の礎を築き、アッカド人が使用する「アッカド語」がメソポタミアの公用語となり、文字は持っていなかったため、シュメール人の「楔形文字」の使用を継承したことで、メソポタミア全域で使用される文字になった。
サルゴン王の孫である第4代のナムラ・シンの時代までさらに領土を拡大し、この頃から自らの名と神を表す語「サイン」が並記され、王の神格化が始まり、「四方世界の王」と称した。
ナムラ・シンの時代に最盛期を迎えるも、彼の死後は帝国の支配力が衰退し、アムル人やエラム人、グティ人などの異民族が侵入して混乱期となり、支配下にあったシュメール諸都市国家が、次々と離反・割拠していった。
紀元前2113年頃、勢力を回復したシュメール人によりアッカド帝国は滅ぼされ、ウル第三王朝が建国された。

ウル第三王朝3rd Dynasty of Ur

人類最古の法典

ウル第三王朝

紀元前2113年頃、「ウル」の王ウル・ナンムが建国した王朝である。
初代王となった彼は、人類最古の法典である「ウル・ナンム法典」を制定したことでも名高く、この法典は、後に古バビロニア王国で制定されたハンムラビ法典に、大きな影響を与えたと考えられている。
建築事業にも積極的に取り組み、ウルの守護神である月神「ナンナ」の神殿建築や動乱で損傷した各地の「ジッグラト」の再建を行った。
彼が紀元前2100年頃に、月神「ナンナ」へ捧げる神殿として建造した「ウルのジッグラト」が、現在のイラクに良い保存状態で現存する。
しかしながら、このウル第三王朝も長続きせず、次第にアムル人やエラム人の侵入に苦慮するようになり、紀元前2004年頃、エラム王国の侵攻を受けてウルが陥落して王朝は滅亡し、シュメール人の都市国家は終焉を迎えた。

イシン第一王朝1st Dynasty of Isin

ウル第三王朝の継承者

イシン第一王朝

紀元前2017年頃、ウル第三王朝の将軍でアムル人のイシュビ・エッラが反旗を翻し、「イシン」を拠点に独立して建国した王朝である。
ウル第三王朝を滅ぼしたエラム王国をシュメールから撤退させた後、「ウル第三王朝の後継者」の立場を取り、混乱の中で独立していた周辺国を次々と制圧して、南部メソポタミア最大の国家として繁栄したが、第5代のリピト・イシュタルの時代にラルサ王朝が独立した。
この時代に制定された「リピト・イシュタル法典」は、ウル・ナンム法典やハンムラビ法典と並び、人類最古の法律文書として名高い。
以後、100年以上に渡って南部メソポタミアの覇権を巡り、同様に「ウル第三王朝の後継者」の立場を取る、ラルサ王朝と争いを続けたが、紀元前1794年頃、遂にラルサ王朝に敗れて完全に併合され、イシン第一王朝は滅亡した。

ラルサ王朝Larsa

継承者を巡る覇権争い

ラルサ王朝

紀元前1934年頃、領土拡大を続けるイシン第一王朝の支配下にあった「ラルサ」で、アムル人のザバイアが独立して建国した王朝である。
次代のグングヌムの時代に急激に勢力を拡大し、イシン第一王朝と南部メソポタミアの覇権を争い、ウル争奪戦で勝利して基盤を固めた。
その後、シュメールの最高神「エンリル」の神殿があった宗教都市「ニップル」を巡る長期に渡る争奪戦にも勝利し、イシン第一王朝の覇権は地に堕ち、「ウル第三王朝の後継者」争いに終止符を打った。
最後の王リム・シン1世の時代には、イシン第一王朝を完全に滅ぼし、約60年に渡り南部メソポタミアの大国として君臨し、一つの繁栄の時代に導いたが、紀元前1763年頃、新たに強力なライバルとして登場した、古バビロニア王国のハンムラビ王との戦いに敗れ、ラルサ王朝は終焉を迎えた。

マリ王国Mari

歴史の扉を開いたマリ文書

マリ王国

紀元前2900年頃にシュメール都市国家とシリア北部の都市を結ぶ中継都市として繁栄し、紀元前24世紀に破壊され重要性を失った都市「マリ」を、紀元前1900年頃、アムル人が復権して築いた王国である。
シュメール都市国家と距離的に遠いが、シュメールの神々を崇拝し、女神「イナンナ」や太陽神「ウトゥ」に捧げた神殿が建造された。
しかし、マリ王国の最高神はアムル人の農耕神「ダゴン」で、ダゴン神に捧げた神殿の建造など、独自の特徴的な伝統も持っていた。
ジムリ・リム王の宮殿は300以上の部屋があり、中庭には壁画が描かれた、当時において最大級の豪華な宮殿は、商人を通して近隣の都市国家や王国にその評判が響き渡った。
紀元前1759年頃、古バビロニア王国のハンムラビ王に破壊され滅び、歴史から消えたが、20世紀に地中に埋まった文書庫から大量の楔形文字が刻まれた粘土板「マリ文書」が発見され、メソポタミア史の研究に大きな光を与えた。

古バビロニア王国Babylonia

メソポタミアの再統一

古バビロニア王国

ウル第三王朝が滅亡した後、「イシン第一王朝」と「ラルサ王朝」のイシン・ラルサ時代が続いていたが、紀元前1894年頃、メソポタミア中部の都市「バビロン」で、アムル人の王スム・アブムが「古バビロニア王国(バビロン第一王朝)」を建国し、三国鼎立時代となった。
第6代のハンムラビ王の時代にメソポタミアを統一して最盛期を迎え、紀元前1750年頃にウル・ナンム法典に次ぐ人類最古の記録された法律である「ハンムラビ法典」を制定した他、首都バビロンの造営、治水灌漑事業や交通網の整備、中央集権的な専制王政の確立を行った。
このハンムラビ王のメソポタミア統一の偉業は、バビロニアの天地創造神話「エヌマ・エリシュ」に託され、神々の世界におけるバビロンの主神「マルドゥク」の主権の争覇物語として描かれており、マルドゥク神はメソポタミアの最高神として祀られ、バビロンの王は戴冠式の代わりに、「マルドゥク神像」の手を掴むことで王となった。
ハンムラビ王の死後は、次第にバビロニア諸都市の独立や、カッシート人の度重なる侵入で、国力が急速に衰退し、紀元前1595年頃、第11代のサムス・ディタナ王の時代にヒッタイト王国の襲撃により滅亡し、歴史の幕を閉じた。

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