目次
オルメカ文明 |
サポテカ文明 |
テオティワカン文明 |
マヤ文明 |
トルテカ文明 |
アステカ文明 |
オルメカ文明は、紀元前1400年~前400年頃までメキシコ湾岸部沿いのベラクルス州からタバスコ州にかけて繁栄した古代文明である。
紀元前1400年~前900年頃の「サン・ロレンソ遺跡」と、前900年~前400年頃の「ラ・ベンタ遺跡」の2つの時代に大きく分けられ、最大の特徴は文明発見のきっかけともなった「巨石人頭像」である。
現在、17個の巨石人頭像が発見されており、当時の支配者の顔を彫った説が有力であるが、一体誰なのかは不明で、この巨石人頭像を作った理由や巨石の運搬方法についても、大きな謎のままである。
もう一つの特徴が「ジャガー崇拝」で、数々の発掘された彫刻類から、単純にジャガーを表したものや、ジャガーと人間をミックスしたような彫像があり、ジャガーを守護神として独自の文化を発展させていたと考えられる。
他にも、高さ34mの土造りのピラミッド、様々なレリーフが彫られた祭壇、文字の書かれた石盤などの遺物が発見されており、テオティワカンやマヤといった文明にも大きな影響を与えたと考えられているオルメカ文明であるが、紀元前400年頃に突如として終焉を迎える事となり、その真相はいまだ謎に包まれたままである。
サポテカ文明は、紀元前1150年~1400年頃までメキシコ南部のオアハカ州の「モンテ・アルバン」を中心に繁栄した古代文明である。
モンテ・アルバンは紀元前500年頃に築かれたが、その前にオアハカ盆地を支配していたのはサン・ホセ・モゴテで、新たな都市としてモンテ・アルバンを築き、移り住んだのではないかと考えられている。
モンテ・アルバンの石盤からは日付を記したものが発見され、メソアメリカで普遍的に使われた「260日暦」と「365日暦」であった事から、2つの暦を確立したのはサポテカ人ではないかといわれている。
また、建物に記された「踊る人」と呼ばれるレリーフが有名で、実際は凄まじい拷問を受けて苦痛にあえぐ捕虜の姿であることが判明し、オアハカ盆地での戦争の激しさを物語り、支配者の権力と軍事力を誇示したと考えられる。
さらに文字をはじめ、タブー・タブレロ様式の建造物、天体観測所や球技場を備えており、メソアメリカ各地の文化の全てを網羅していることから、テオティワカンやマヤと密接な関係を築いていたと考えられている。
モンテ・アルバンが900年頃に衰退した後、東の「ミトラ」が台頭し、1400年頃にサポテカ文明は終焉を迎えた。
テオティワカン文明は、紀元前200年~600年頃にメキシコ中央高原で繁栄した古代文明で、最盛期には20万の人口を抱える大都市となり、当時のアメリカ大陸で「最大規模」を誇る中心的都市であった。
生贄の儀式が盛んで、神への捧げ者としての生贄も大量に発見されていることから、信仰の中心となる巨大な宗教都市と考えられている。
中央に「死者の大通り」と呼ばれる巨大な道が通っており、その道を基点として「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」「ケツァルコアトルの神殿」「ケツァルパパロトルの宮殿」などの建造物が整然と配置されており、テオティワカン人の宇宙観や宗教観を地上に具現化した、緻密な都市計画に基づいて建設された。
建造物は「タルー・タブレロ様式」という独特の様式で建造されており、この建築様式はここが発祥となって、後にサポテカやマヤに広まっていったとされており、当時のメソアメリカ全体に強い影響力を持っていたと思われる。
これほどの大都市を築き栄華を誇ったテオティワカン文明も、650年~750年頃に終焉を迎え、焼け跡などの痕跡から、内部の反乱説や外部の侵略説などが有力であるが、詳しい原因は不明のままである。
文字を持たなかったため、文明に関する詳細もいまだ不明の、全てが謎に包まれた文明となっている。
後に、廃墟と化していたこの都市を発見したアステカ人が、「テオティワカン(神々の集う場所)」と命名した。
マヤ文明は、メキシコ南東部と中央アメリカ北西部(グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス)を中心として繁栄した古代文明である。
マヤ文明は、紀元前1800年~1500年頃まで続いたが、前1800年~250年の「先古典期」、250年~900年の「古典期」、900年~1500の「後古典期」の3つの時代に分けられ、都市が築かれた場所により、「マヤ高地」「マヤ低地南部」「マヤ低地北部」の3つに分けられる。
マヤ高地は、先古典期に繁栄した都市が多く、高原・山岳地帯にある。マヤ低地南部は、マヤの最盛期である古典期に繁栄した都市が多く、階段式の基壇を持つ巨大な神殿や王朝の歴史を刻んだ石碑などが築かれ、熱帯雨林が生い茂った地域にある。
マヤ低地北部は、後古典期に繁栄した都市が多く、セノーテと呼ばれる聖なる泉が水源となっている地域にある。
マヤ文明は、青銅器や鉄器などの金属器を持たない新石器時代の都市文明で、牛や馬などの家畜の飼育や車輪の実用化はせず、基本的に人力で都市建設や交易を行っていた。反面、「マヤ文字」による文字記録、独自の「マヤ暦」、「持ち送り式アーチ工法」などの高度な建築技術、現代に匹敵する高度な「天文学」の知識などを併せ持っていた。
さらに、とうもろこしを主食とし、生贄の儀式を行い、地域全体を統一する王朝がなかったなどの特徴がある。
約3300年続いたマヤ文明も、1492年のコロンブスによるアメリカ大陸発見からはじまるスペインの侵略を受け、ほとんどの都市国家は1500年代に征服され、最後まで抵抗を続けたタヤサルも1697年に力尽き、滅亡の時を迎えた。
年 代 | 区 分 | 主要都市 |
---|---|---|
前1800年~ | 先古典期 | カミナルフユ ナクベ エル・ミラドール |
250年~ | 古典期 | ティカル コパン カラクムル カラコル パレンケ ウシュマル |
900年~ | 後古典期 | チチェン・イッツァ マヤパン トゥルム |
トルテカ文明は、テオティワカンの滅亡後、600年以降にメキシコ中央部の「トゥーラ」とその周辺を中心に繁栄した古代文明である。
テオティワカンの文化を受け継ぎつつ、創造神「ケツァルコアトル」を中心に信仰し、マヤ文明の影響も受けていた特徴を持っている。
トルテカ文明の中心となるトゥーラは、800年頃に築かれた周囲を崖に囲まれた都市で、戦士の石像が並ぶ神殿や、戦士や髑髏などのレリーフが多く発見され、「軍事的な都市」だったと考えられている。
もう一つの特徴が、仰向けの状態で肘をつくような姿勢で上半身を起こし、顔を90度横へ向け、両手で腹部の上に皿を抱えて膝を折り曲げている「チャクモール」という像である。
この像は死んだ戦士の象徴で、生贄の心臓を神へ捧げるために作られ、この上で神聖な儀式が行われたとされており、チチェン・イッツァなどのマヤ遺跡で広く確認されていることから、マヤ文明にも大きな影響を与えていた。
トゥーラは1150年頃に終焉を迎え、破壊された痕跡から、内部の反乱説や外部の侵略説などがあるが、理由は分かっておらず、トゥーラの滅亡とともにトルテカ文明も衰退していった。
アステカ文明は、トルテカ文明の衰退後、1200年~1521年頃までメキシコ中央部のテスココ湖周辺を中心に繁栄した古代文明である。
アステカ人は、神のお告げによりアストランの地から新天地を求めて出立し、やがてテスココ湖畔に辿り着き、湖に浮かぶ小島でサボテンの上に止まった鷲が蛇を食べているのを目撃し、この地が約束の地であると信じ、この小島に「テノチティトラン」を建国し、この内の一部が分裂して、近くの島に姉妹都市の「トラテロルコ」を建設した。
しかし、アステカ人が辿り着く前からテスココ湖畔には既に多くの都市国家が存在しており、勢力争いも絶えず発生したため、テノチティトランはテスココとトラコパンと三国同盟を締結し、テスココ湖周辺の勢力争いに終止符を打ち、「アステカ帝国(アステカ三国同盟)」の歴史の幕が開けた。
この後、アステカ帝国は軍事力を増して領土拡大を進め、メキシコ中央の太平洋岸から大西洋岸まで支配し、首都のテノチティトランは大神殿を中心に宮殿や住居が建ち並び、帝国繁栄の象徴として隆盛を極めた。
アステカ文明は、これまで繁栄してきたメソアメリカの様々な文化を受け継いでいるとされているが、生贄に関しては特異で、太陽消滅の信仰が普及しており、太陽の消滅を先延ばしするために頻繁に生贄の心臓を神に捧げていた。
軍事力を誇ったアステカ文明も、1521年にエルナン・コルテス率いるスペイン軍に制圧され、終焉を迎えた。