~遥かなる悠久の歴史遺産~
  • 心に刻まれた旅の思い出
  • まだ見ぬ美しい世界へ
かつての栄華に思いを馳せて.....
文明の繁栄と夢の跡

目次

イエスの降誕
幼少時代
ヨハネの洗礼
伝道の日々
最後の晩餐
十字架刑と復活・昇天

イエスの降誕Birth of Jesus

三位一体の子なる神

ナザレ

パレスティナ北部のガリラヤ地方の町ナザレに、大工ヨセフと婚約者マリアが暮らしており、ある日、マリアのもとに天使ガブリエルが現れ、聖霊により神の子が宿ることを告げる「受胎告知」があった。
この告知を受け入れたマリアは婚前前に「処女懐胎」で身籠り、天使の御告げによりヨセフはマリアを妻に迎え入れ、二人は結婚した。
この地方を支配していたローマ帝国が戸籍調査を指示したため、二人は住民登録をするため、ベツレヘムに向かったが、宿が混んでいたために泊まれず、ようやく見つけた馬小屋でマリアは男の子を産んだ。
紀元前4年、飼い葉桶に寝かされた幼子は「イエス」と名付けられ、ここに世界史上、最も重要な人物が降誕した。
天使の「救世主」降誕の御告げにより羊飼いはお祝いに訪れ、東方では輝く星の導きにより三博士が礼拝に訪れた。

幼少時代Childhood

大変聡明な神の子

エルサレム

マリアは律法で定められた産後の清めの期間を終えた後、モーセの律法に従って、イエスをエルサレムの神殿に捧げる「神殿奉献」に行った際、女預言者アンナに会い、アンナは救世主であるイエスを遣わした神を賛美し、エルサレムの人々に「救世主」の誕生を告げた。
イエスはガリラヤ地方の町ナザレで育ち、12歳になったイエスはユダヤ人の男子の義務で、エルサレムで最低2日間滞在することを義務付けた「過越の祭り」のため、両親と一緒にエルサレムに巡礼した。
両親が義務を果たして、岐路に着くとイエスがいないのに気づいて、エルサレムまで戻り、3日後に両親はエルサレムの神殿で、ラビたちと語り合うイエスを見つけ、彼の聖書理解に学者たちは驚き、両親が何故こんな事をしたのかと尋ねると、イエスは何故自分を探したのかと逆に両親に問うた。

ヨハネの洗礼Baptism of John

神の国は近づいた、悔い改めよ

ナザレ

イエスが19歳の時に父ヨセフが亡くなり、その後10年程母マリアとナザレで過ごしていた頃、ガリラヤ地方にユダヤ人の回心を叫ぶ洗礼者ヨハネが現れ、ヨルダン川の河畔の荒野で、人々に「神の国」が近づいたことを伝え、人々に「悔い改めよ」と説き、洗礼を授けていた。
28年、イエスも洗礼者ヨハネのもとに赴いて洗礼を受け、救世主であることを自覚したイエスは、霊により荒野に送り出され、そこで40日間留まり、悪魔の誘惑を退けた後、ガリラヤ地方で宣教を開始した。
一方、洗礼者ヨハネは、父ヘロデ大王の後を継いでガリラヤの領主となったヘロデ・アンティパスが、異母兄の妻であるヘロディアと結婚したことを批判したため、捕えられた。
ある日、ヘロディアの娘サロメの美しさに魅せられたヘロデ・アンティパスは、彼女にどんな褒美でも与えるとして踊りを所望し、見事な踊りを披露した彼女は褒美として洗礼者ヨハネの首を求め、洗礼者ヨハネは首をはねられた。

伝道の日々Day-to-Day Evangelism

山上の垂訓と数々の奇跡

ナザレ

ガリラヤ地方へ伝道に出たイエスは、貧民や病に苦しむ人々の中に入っていき、「神の国」の福音を説き、人々の病気を癒すなどの奇跡を度々起こし、自らが「救世主」であることを人々に立証していった。
イエスの評判は高まり、ローマ帝国の圧政に苦しんでいたユダヤの人々に受け入れられて、信者は急激に増えていき、信者になった者の中から12人の弟子「十二使徒」を選び、彼らに特権を与えた。
イエスは「神の国」は信仰する人の心にあり、救いを求める全ての人々を救う神の「絶対愛」と、敵をも愛する「隣人愛」を説いた。
しかし、この全ての人々に対する神の無差別な「平等愛」の教えは、ユダヤ教の「選民思想」や「律法主義」を批判しており、ユダヤ教学者やユダヤ教の一派であるパリサイ派は、唯一神ヤハウェの冒涜として対立していった。

最後の晩餐Last Supper

イエスの受難と使徒の裏切り

エルサレム

30年、出エジプトを記念する大祭「過越の祭り」の直前、ロバに乗ったイエスは十二使徒を率いてエルサレムへ入城し、その光景を見た人々は、ユダヤ教の教えにある救世主が到来したと受け取った。
イエスはエルサレム神殿の内外で説教し、ユダヤ教の指導者を批判したため、ユダヤ教の指導者やパリサイ派は神殿の権威と秩序を破壊する危険な行動として、イエスを捕え、審問にかけようと動き出した。
それを悟ったイエスは、十二使徒と「最後の晩餐」をとり、食卓のパンと葡萄酒をそれぞれ「自分の体」と「自分の血」として使徒達に与え、自分の受難と死を予告し、この中に裏切り者がいることや使徒達が逃げ散ること、ペテロの離反も予告した。
イエスは晩餐の後、オリーブ山の麓にあるゲツセマネの園に行き、十字架刑を受けることの苦悩を祈り、十字架での死を「杯」と呼んで、できれば回避したいと祈り、三度祈って確信を得たイエスは自ら捕まるため進んでいった。
その時、使徒の一人で裏切ったユダが手引きした祭司長や神殿の番兵などに捕えられ、他の使徒達は逃げ出した。

十字架刑と復活・昇天Crucifixion and Resurrection・Ascension

原始キリスト教の誕生

エルサレム

ローマ帝国支配下のユダヤにおける最高裁判権を持つ宗教的・政治的自治組織である「サンヘドリン」は、イエスの処刑を決定していた。
しかし、ユダヤ人には死刑を決定して執行する権限がないため、ローマ帝国のユダヤ属州総督ピラトにイエスを束縛して身柄を渡した。
イエスを尋問した総督ピラトは、処刑に相当する罪を見出せず、処刑を望まなかったが、ユダヤの人々の十字架刑を望む強い要求に屈し、「自らには責任はない」と宣言して、イエスに十字架刑を宣告した。
イエスは十字架を背負わされ、荊の刺のある冠をかぶり、総督ピラトの官邸から刑場のある「ゴルゴタの丘」に続く道「ヴィア・ドロローサ」を歩いて行き、ゴルゴタの丘で衣服を剥ぎ取られ、十字架に磔にされて絶命し、アリマタヤのヨセフがイエスの遺体を引き取り、亜麻布で包み墓に埋葬した。
埋葬されたイエスの遺体は処刑後3日目に消え、復活後のイエスは40日間に渡り大勢の弟子達の前に現れ、神の国について語り続け、40日後に弟子達が見守る中、福音を全世界に伝えよと命じ、オリーブ山の頂上から天に昇った。
復活を信じた弟子達は、「イエスは全ての人々の罪を贖うため十字架に磔にされた」と信じ、イエスは昇天し神のもとで最後の審判を下す救世主「イエス=キリスト」となり、キリストを信仰する「原始キリスト教」が発足した。
イエスの昇天後、エルサレムにいた弟子達(十二使徒)が「エルサレム原始教会」を設立し、伝道に立ち上がった。

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