目次
都市国家ポリス |
スパルタ |
イオニアの反乱 |
ペルシア戦争 |
ペロポネソス戦争 |
紀元前1200年頃のドーリア人の侵入による混乱は、紀元前800年頃に収まり、ギリシア人は各地に都市国家「ポリス」を作り始めた。
ポリスの小高い丘に神殿(アクロポリス)、麓に政治や経済の中心となる広場(アゴラ)や市民の住宅があり、外は城壁で囲まれていた。
身分制度は貴族・平民・奴隷の3種類で、主に平民の支持を受けた人が「僭主」としてポリスの実権を握り、様々な独裁政治を行った。
ポリスはそれぞれが独立国家で、互いに戦争が絶えず、一つの国に纏まることはなかったが、自らを「ヘレネス」、他民族を「バルバロイ」と呼んで区別し、ギリシア神話の「オリンポス12神」を信仰し、「デルフィの神託」を求めて全土から巡礼者が訪れ、「オリンピアの祭典」は全ギリシア人が参加して競技を行うなど、一つの民族としての共有文化もあった。
人口の増加に伴い、地中海全体に植民を進め、海外貿易も盛んになり、経済も発展すると、平民の中に裕福になる者が現れ、重装歩兵として戦争にも出陣するようになり、平民の権力は大きくなり、政治に参加するようになった。
アテネでは、財産により政治への参加範囲を決めた「ソロンの改革(短期間のうちに失敗)」や、市民に僣主になりそうな人の名前を、陶器の破片に書いて投票してもらい、得票数が6000票以上あった場合、10年間国外に追放する「クレイステネスの陶片追放制度」など、民主政治の基礎が築かれ、古代における民主主義の時代が到来した。
ギリシアに侵入したドーリア人が、紀元前800年頃にペロポネソス半島の先住民を征服して築いたポリスで、他と異なる王政を採用した。
スパルタには3種類の身分制度があり、政治と軍事に専念する戦士の「市民(スパルタ人)」、参政権が無く兵役の義務を負う半自由民の「ペリオイコイ」、奴隷の「へロット」で構成され、少数派のスパルタ人は多数派のへロットによる反乱に度々悩まされ、それを鎮圧するため、厳しい軍国主義を採用し、「スパルタ教育」が行われた。
これは、まず生まれると族長の選別で体が弱い者は捨てられ、7歳になると家族から離され、他の子供達と集団生活をして教育と基礎訓練を行い、12歳から本格的に戦士の訓練を行った。
そして、20歳で軍隊に入って部下を持ち、30歳になるとようやく集団生活から開放され、結婚も許された。
その結果、スパルタはギリシア世界では最強の重装歩兵軍を誇ることで知られ、誰にも侵略されることはなかった。
小アジアのイオニア地方の「ミレトス」を中心に植民した人々が築いた都市は、その後、オリエントの覇者となったアケメネス朝ペルシアが侵略してきて支配するようになり、紀元前500年にミレトスを中心とするイオニア地方の植民都市がペルシアに対して反乱を起こした。
この反乱に「アテネ」と「エレトリア」が支援を行うが、紀元前494年にラデ島沖の戦いで反乱軍は大敗を喫して崩壊し、敗北したイオニア諸都市は徹底的に破壊され、ミレトスでは男は全て殺され、女子供は奴隷として「スサ」に送られ、ミレトスから人が消えた。
イオニア諸都市の掃討は完了したが、時の皇帝ダレイオス1世はこれで満足するはずもなく、紀元前492年に「イオニアの反乱」に加担したアテネとエレトリアに対する報復のため、ギリシアに向けて遠征を開始した。
紀元前492年にギリシアに向けて遠征を開始したアケメネス朝ペルシアであったが、ペルシア艦隊はアトス山の岬沖で暴風に遭遇して大損害を受け撤退することとなり、「第一次ペルシア戦争」は終焉した。
ダイレイオス1世は紀元前491年にギリシアの各ポリスに服従を求め、紀元前490年に服従しない諸都市を攻略するため、再度ギリシアに遠征を開始し、イオニアの反乱を支援したエレトリアは征服された。
その後、アテネへ向けて進軍し、「マラトンの戦い」でアテネの重装歩兵により大敗を喫し、「第二次ペルシア戦争」は終焉した。
この時、兵士が重装備のままアテネまで走り、勝利を伝えたことが、マラソンの名称と競技の由来との逸話がある。
ダレイオス1世は再度遠征の準備を進めたが、エジプトとバビロンの反乱の対応に追われ、実現できず亡くなった。
後を継いだ息子クセルクセス1世が、紀元前480年に大遠征軍を率いて「第三次ペルシア戦争」を開始し、「テルモピュライの戦い」でスパルタを破るも、「サラミスの海戦」でアテネの将軍テミストクレスの計略により敗北した。
この敗北でクセルクセス1世は戦意を消失して撤退したが、その後も小競り合いは続き、「プラタイアの戦い」や「ミュカレの戦い」などでペルシアが敗北をし続け撤退したことで、ギリシアには一時的に平穏が訪れたが、今後のペルシアの脅威に備えて、紀元前478年にアテネを盟主としてポリス間の軍事同盟「デロス同盟」が結成された。
平穏も束の間、その後も両者の小競り合いは長く続いたが、決定的な戦果を上げることなく、紀元前449年にデロス同盟とペルシアの間で「カリアスの和約」が結ばれ、イオニア地方の独立の承認とともにペルシア戦争は終結した。
アテネを勝利に導いたテミストクレスは、その後名誉と権力に溺れて陶片追放になり、宿敵ペルシアに亡命した。
デロス同盟は加盟ポリスから資金を集め、デロス島の金庫で軍資金として共同管理していたが、ペルシアの軍事的脅威が薄れた頃から盟主のアテネが支配的となり、紀元前454年には金庫をアテネに移し、アテネは軍資金を勝手に流用して「パルテノン神殿」などを建造した。
また、同盟から離脱するポリスへの攻撃や、民主制の強要など、次第にデロス同盟はアテネが諸ポリスを支配する機関へと変貌した。
一方、ドーリア人が先住民を征服して築いたポリスのスパルタは、民主制を採用していないアテネと異なる政治体制で、こうしたアテネの専制的支配に懸念を抱き、スパルタを盟主として「ペロポネソス同盟」を結成し、アテネと敵対するようになった。
紀元前431年に両者の対立は頂点に達し、ギリシア全土を巻き込んだ「ペロポネソス戦争」が勃発した。
アテネは将軍ペリクレスの策で籠城戦に持ち込むが、疫病の伝来で市民の3分の1が死亡し、ペリクレスも死亡した。
しかし、戦争は引き続き継続し、紀元前415年にアテネはシチリア島遠征で敗北し、さらにスパルタはアケメネス朝ペルシアの援助を得て、紀元前404年、ついにアテネは敗北してスパルタに降伏し、デロス同盟は解体した。
しかし、アテネに代わり覇権を握ったスパルタの支配も長続きせず、紀元前371年にスパルタに対抗する同盟軍に敗れて覇権を失い、次に覇権を握ったテーベも長続きせず、ギリシアは混乱状態に陥り、次第に衰退していった。
この後、紀元前338年に北方で急速に強国へと成長したマケドニア王国のフィリッポス2世が侵攻し、アテネ・テーベ連合軍が「カイロネイアの戦い」で敗れ、スパルタを除く全ギリシアがマケドニア王国の支配下となった。