目次
西ゴート王国 |
ブルグント王国 |
ヴァンダル王国 |
フランク王国 |
東ゴート王国 |
ロンバルド王国 |
4世紀にアジア系の遊牧民族であるフン族が西進し始め、東ゴート族が征服されたのを機に、西ゴート族は375年にドナウ川を越えてローマ帝国領に移動し、「ゲルマン民族の大移動」のきっかけとなった。
ローマ帝国は西ゴート族の居住を認めたが、西ゴート族は搾取と飢餓に苦しめられ、378年に「ハドリアノポリスの戦い」でローマ帝国に勝利(ローマ皇帝ウァレンスは戦死)し、382年に改めて同盟関係を結ぶと、これをローマ帝国の弱体化と捉えたゲルマン諸民族は、絶好の好機と見て相次いでローマ帝国領に侵入してくることとなった。
395年のローマ帝国の東西分裂後、西ゴート族の王アラリックは、西ローマ帝国に侵攻し、410年には既に首都ではなくなっていたローマを占領して3日間に渡り略奪を行い、その後間もなくして王アラリックが病死すると、西ゴート族は西進を続けて南ガリアを支配し、さらにイベリア半島に入り、ヴァンダル族を追い出して、南ガリアとイベリア半島を支配すると、415年に王ワリアは都を南ガリアの「トロサ」に定めて、「西ゴート王国」を建国した。
507年にフランク王国の王クローヴィスに南ガリアを奪われ、領土はイベリア半島のみとなり(トレドに遷都)、711年にイスラム帝国(ウマイヤ朝)に侵攻されると、最後の王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡した。
ブルグント族はゲルマン民族の大移動の中で、ライン川を越えてガリアに侵入し、411年に王グンダハールはローヌ川流域に「ブルグント王国(都は不明)」を建国し、西ローマ帝国の同盟者の地位を得た。
しかし、同盟者の地位にありながら、西ローマ帝国のガリア・ベルギカ北部地域を襲撃したため、436年に西ローマ帝国の将軍アエティウスがフン族の傭兵を呼び入れ、ブルグント王国を滅ぼしにかかり、437年に王グンダハールが戦死し、ブルグント王国は一旦滅亡した。
後の中世ドイツで、この戦いを題材にした叙事詩「ニーベルンゲンの歌」が作られ、さらにそれを元にリヒャルト・ワーグナーが4夜からなる楽劇「ニーベルンゲンの指環」を書いた。
443年にブルグント族は西ローマ帝国より再び同盟者の地位とサパウディア地域を与えられ、新しい王グンディオクはブルグント王国を再建したが、476年に同盟者の西ローマ帝国が先に滅亡し、534年にガリア北部で有力となったフランク王国によって征服され、ブルグント王国は終焉を迎え、その後はフランク王国の分王国と成り果てた。
ヴァンダル族は406年にフン族に圧迫されて移動を開始し、ガリアを通ってイベリア半島に入ったが、さらに西ゴート族に追われ、429年にジブラルタル海峡を渡って北アフリカに逃れると、435年にカルタゴを占領し、王ガイセリックが「ヴァンダル王国」を建国した。
地中海貿易で繁栄した王国は、地中海における一大勢力となり、シチリア島やサルデーニャ島などの地中海の島を支配し、455年にはローマを占領、468年には東ローマ帝国の艦隊を壊滅させた。
477年に王国を強大にした王ガイセリックが亡くなると、王国の対外的な力は次第に衰退に向かい、東ゴート族の侵攻でシチリア島を失い、また増大するムーア人の侵入にも苦慮することとなり、ムーア人との戦争に敗北すると王家の一部が反乱を起こすなど、衰退の一途を辿る中、533年にローマ帝国の復興を目指していた東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世が、将軍ベリサリウスが率いる軍勢を派遣して「ヴァンダル戦争」を開始すると、534年に最後の王ゲリメルが降伏し、ヴァンダル王国は滅亡の時を迎えた。
ゲルマン民族の大移動の中でガリア北部に侵入し、小部族に分かれていたフランク族は、481年にメロヴィング家のクローヴィスが各部族を統一して「フランク王国(メロヴィング朝)」を建国した。
ゲルマン諸民族は、カトリック教会では異端とされる「アリウス派」のキリスト教徒であったが、496年に王クローヴィスが「アタナシウス派」に改宗したことにより、カトリック教会との関係を深めて急速に発展し、534年にはブルグンド王国を滅ぼしてガリアを統一した。
フランク族は分割相続が伝統であったため、王クローヴィスの死後に王国は4人の王による分割統治となり、東北部の「アウストラシア分王国」、中西部の「ネウストリア分王国」、南部の「アキテーヌ分王国」、東部の「ブルグント分王国」の4つに分けられ、各分王国が争う分裂状態となった。
一時的に再統一されることもあったが、各分王国の王の力は弱く、貴族が行政・財政の最高職である宮宰の地位に就いて統率し、中でもアウストラシア分王国のカロリング家が力を増して全ての分王国の宮宰を独占するに至った。
732年に宮宰のカール・マルテルは、領内に侵入してきたイスラム帝国(ウマイヤ朝)を「トゥール・ポワティエ間の戦い」で撃退し、キリスト教世界を守ったことで、カロリング家の名声をさらに高め、王国の実権を握った。
カール・マルテルの息子ピピンは、メロヴィング家の王を廃して、751年にローマ教皇の支持を得て王位に就き、「カロリング朝」を創始すると、756年に北イタリアのロンバルド王国に侵入してラヴェンナ地方の領土を奪った。
この領土をローマ教皇に寄進したことが、中世カトリック教会の経済的な基盤となる「教皇領」の始まりとなった。
ピピンの息子カール大帝は、774年に北イタリアに侵攻してロンバルド王国を滅ぼして西ヨーロッパを統一し、王国の最盛期を築き上げ、800年にはローマ教皇レオ3世から西ローマ帝国皇帝に戴冠「カール大帝の戴冠」され、王国は東ローマ帝国と並ぶ大国となり、カトリック教会の保護者としてキリスト教世界における権威を獲得した。
814年にカール大帝が亡くなると、生存していた唯一の息子ルートヴィヒ1世に王国はそのまま継承されたが、840年のルートヴィヒ1世の死後は、伝統の分割相続に則り、843年の「ヴェルダン条約」、870年の「メルセン条約」を経て、最終的に「東フランク王国」「西フランク王国」「イタリア」の三国に分割されることとなった。
その後、876年に東フランク王国の王ルートヴィヒ2世の死去を受けて、カール3世は兄ルートヴィヒ3世とともに分割統治を行い、879年にカールマンからイタリアの王位を譲位され、882年に兄ルートヴィヒ3世の死去で東フランク王国の全土を継承し、884年に西フランク王国の王カルロマンの死去に伴い王位を委ねられることになった。
この結果、短期間でフランク王国は統一されたが、弱腰で優柔不断なカール3世は、度重なる外敵の侵入に対処できずに無能とみなされ、887年に退位すると、フランク王国は再び統一されることはなく、実質的に終焉を迎えた。
370年に西進してきたフン族に征服された東ゴート族は、457年にフン族の衰退に乗じて、東ローマ帝国領のパンノニアに移住した。
西ローマ帝国を滅ぼし、東ローマ帝国の皇帝ゼノンの代理としてイタリアを統治するイタリア王に即位したオドアケルは、次第に反ゼノン派となって対立するようになったため、皇帝ゼノンは東ゴート族の王テオドリックと同盟を結び、イタリア遠征とその統治を約束した。
東ローマ帝国の要請を受けた東ゴート族の王テオドリックは、488年に出立して北イタリアに入ると、対するオドアケル軍を次々と駆逐していき、493年にイタリア王オドアケルを暗殺して、都を「ラヴェンナ」に定めて「東ゴート王国」を建国した。
その後も領土拡大を進め、フランク王国と並ぶ大国となったが、東ゴート族も他のゲルマン諸民族と同様に「アリウス派」のキリスト教徒であったため、次第にカトリック教会や東ローマ帝国と軋轢を深めるようになっていった。
526年の王テオドリックの死後は衰退への道を辿ることになり、ローマ帝国の復興を目指しヴァンダル王国を征服した東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、535年に将軍ベリサリウスが率いる軍勢を派遣して「ゴート戦争」を開始すると、東ゴート王国は執拗な抵抗を続けたが、最後の王テヤの戦死により、555年に完全に滅亡した。
紀元前922年、ソロモン王の息子レハブアムが、ユダ一族(ダビデ王、ソロモン王)の王位を継承して、ユダ族とベニヤミン族のダビデゆかりの2部族をまとめ、王都を「エルサレム」に定めて建国した。
エルサレムのヤハウェ神殿の祭司の権威を背景にした王権は比較的安定し、北のイスラエル王国と闘争と同盟を繰り返しながら存続した。
紀元前722年にイスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされると、その脅威はユダ王国にも及び、アッシリア帝国に服属する形で存続していたが、紀元前609年に「メギドの戦い」で敗北してエジプトの支配下となり、最終的に紀元前597年に新バビロニア王国のネブカドネザル2世の前に屈して支配下に入った。
その後、ユダ王国は新バビロニア王国に対して反乱を起こすもネブカドネザル2世に鎮圧され、紀元前587年、ユダ王国は再び反乱を起こすも、紀元前586年にネブカドネザル2世に鎮圧され、エルサレム神殿が徹底的に破壊され、ユダ王国は滅亡し、この時に大量のユダヤ人(ヘブライ人)がバビロンに連行される「バビロン捕囚」が行われた。
紀元前539年、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世が新バビロニア王国を征服した際、ユダヤ人は解放された。
ロンバルド族はゲルマン民族の大移動の中で、東ローマ帝国領内で居住していたが、地中海沿岸のヴァンダル王国や東ゴート王国を滅ぼした東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世が亡くなった後、東ローマ帝国がササン朝ペルシアと抗争をしているのを契機と捉えた。
ロンバルド族の王アルボインは、隙をついて北イタリアに侵入し、568年に都を「パヴィア」に定めて「ロンバルド王国」を建国した。
その後も東ローマ帝国から領土を奪い、王国はイタリア半島の全域を支配するようになり、カトリック教会も圧迫するようになった。
ロンバルド族は当初はカトリック教会と友好的であったためカトリックへの改宗も進んでいたが、今や関係は完全に悪化したため、ローマ教皇ハドリアヌス1世は、756年の「ピピンの寄進」で関係が強固となっていたフランク王国のカール大帝に援助を求めると、773年にカール大帝はイタリア遠征を行い、774年に都パヴィアを陥落させて最後の王デシデリウスを廃して、カール大帝自らロンバルド王を兼任したことで、ロンバルド王国は実質的に滅亡した。