ギリシアの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と言ったように、ナイル川は古代エジプトに豊富な水と沃土をもたらした。
その流域には多くの人々が暮らし、村落は次第に統合され、ナイル川の下流の「下エジプト」と上流の「上エジプト」の2つの国ができた。
この2つの国は互いに対立するようになり、紀元前3100年頃に上エジプトのナルメル王(あるいはメネス王)が上下エジプトを統一した。
これが第1王朝の誕生で、これ以降約2800年の長きに渡り、第31王朝まで継続する、「古代エジプト王朝」の歴史の始まりである。
首都は上・下エジプトの境にあたる「メンフィス」に新たに築かれ、諸王は空の神である鷹神「ホルス(第1・第2王朝の出身地ティニス地方の守護神)」の化神として王(ファラオ)の権力の確立に努め、中央集権体制を整備した。
王墓は上エジプトのアビドスと、メンフィスの近くのサッカラに日干しレンガを使った巨大な台状の墓「マスタバ墳」が造られ、これが後の古王国時代の階段ピラミッドや四角錐形の巨大なピラミッド建造に繋がっていった。
第1王朝時代には既に「太陽暦(シリウス・ナイル暦)」が使用され、また、「神聖文字(ヒエログリフ)」と呼ばれる象形文字の文字体系が確立され、並行して発達した「神官文字(ヒエラティック)」も使い分けて用いられた。
この時代の遺跡としては、「ナルメル王の化粧板」が出土した上エジプトのヒエラコンポリスが最も有名である。
年 代 | 王 朝 | 王(ファラオ) |
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前3100年~ | 第1王朝 | ナルメル アハ ジェル ジェト デン アネジイブ セメルケト カア |
前2890年~ | 第2王朝 | ヘテプセケメイ ラネブ ニネチェル ウェネグ セネド セト・ペルイブセン カセケムイ |
古王国時代は、古代エジプトを象徴する建造物であるピラミッドが盛んに建造された時代で、「ピラミッド時代」とも呼ばれ、古代エジプトにおける政治・社会・宗教等の基本形が完成された時代である。
古王国時代に入ると中央政権体制はしっかりと安定し、第3王朝の王は首都を「メンフィス」とし、以後第6王朝まで平和と繁栄が続いた。
第3王朝第2代のジェセル王は、最初のピラミッドである「階段ピラミッド」を建造し、続く王達も巨大なピラミッドを次々と建造した。
第4王朝初代のスネフェル王は、階段の部分を埋めて稜線が中ほどで折れている「屈折ピラミッド」を建造し、これに次いで、四角錐形のピラミッドも建造された。
第4王朝時代は古王国時代の絶頂期で、今では代名詞的存在の「ギザの三大ピラミッド(クフ王、カフラー王、メンカウラー王のピラミッド)」が建造されたが、ここを頂点として、以降のピラミッド建造への労力は縮小された。
古王国時代の王は太陽神信仰と強く結びついており、「太陽神ラー」の名を自分の名に取り入れた王も多く、第5王朝時代には太陽神ラーと王の一体性、ひいては王の正統性を示す「太陽神殿」が次々と建造されるようになった。
その代償として第5王朝のピラミッドは、第4王朝に比べて遥かに小規模であるが、第5王朝末期から第6王朝にかけてピラミッドの内部の部屋や通路の壁に、「ピラミッド・テキスト」と呼ばれる碑文が描かれるようになった。
繁栄を極めた古王国時代も第6王朝の中央集権体制の弱体化に伴い、各地の豪族や州侯が自立して強力となり、最後には王朝が崩壊して、古代エジプトの統一権力は瓦解し、第1中間期と呼ばれる小国群雄割拠の時代に突入した。
年 代 | 王 朝 | 王(ファラオ) |
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前2686年~ | 第3王朝 | サナクト ジェセル セケムケト カーバー フニ |
前2613年~ | 第4王朝 | スネフェル クフ ジェドエフラー カフラー メンカウラー シェプスセスカーフ ジェドエフプタハ |
前2494年~ | 第5王朝 | ウセルカフ サフラー ネフェルイルカラー シェプセスカラー ネフェルエフラー ニウセルラー メンカウホル ジェドカラー ウナス |
前2345年~ | 第6王朝 | テティ ウセルカラー ペピ1世 メルエンラー1世 ペピ2世 (メルエンラー2世 ネチェルカラー ニトケルティ女王) |
第1中間期は、第6王朝の崩壊から第11王朝による再統一までの時代で、第7王朝から第10王朝は名ばかりの、混沌の戦乱状態である。
第7、第8王朝の政権は「メンフィス」で存続していたが、各地の州侯の強大化は更に進み、王朝崩壊とともにメンフィスの命運も尽きた。
やがて群雄割拠の中から、第8王朝崩壊後に「ヘラクレオポリス」に興った第9王朝を創始したケティ1世の一族により、一時全土が統一されたが、約30年で終了し、「ヘラクレオポリス」を拠点とする自立政権(第10王朝)と「テーベ」を拠点とする自立政権(第11王朝)が台頭し、この二大勢力による対立の時代「南北朝時代」が始まり、1世紀余りに渡って一進一退を続けたが、第11王朝のメンチュヘテプ2世の時代に、第10王朝を倒して古代エジプトが再統一され、混沌の時代はついに終わりを告げた。
これにより古代エジプトは中王国時代に入り、以降の政治的中心はメンフィスから新たに「テーベ」へと移った。
年 代 | 王 朝 | 王(ファラオ) |
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前2181年~ | 第7王朝 | 具体的な王の存在はあまり判明していない |
前2180年~ | 第8王朝 | 具体的な王の存在はあまり判明していない |
前2160年~ | 第9王朝 | 具体的な王の存在はあまり判明していない |
前2130年~ | 第10王朝 | 具体的な王の存在はあまり判明していない |
中王国時代は、首都が「テーベ」とされ、古王国時代のメンフィスに代わって政治・文化・宗教の中心となり、様々な文化芸術が花開いた時代で、エジプト文学の古典もこの時代に次々と生み出された。
古代エジプトを再統一した第11王朝のメンチュヘテプ2世以降も有能な王により平和な時代が続き、大規模な葬祭殿や神殿が建てられた。
テーベ近郊のデイル・アル・バハリに建造された「メンチュヘテプ2世葬祭殿」は、その最初を飾る偉大な列柱式の壮麗な神殿である。
中央国時代にはテーベで崇拝された神の重要性が高まり、とりわけ「アメン神」が国家の主神となり、王はテーベ市内の「ルクソール」や「カルナック」に壮麗な神殿を建立した。
また、アメン神は、後に太陽神ラーと融合して「アメン・ラー」となり、古代エジプトの国家神となっていった。
もう一つの重要な神が「オシリス神」で、「人間は死ねば誰もがオシリス神となり再生・復活する」という分かりやすい思想が人々に受け入れられ、オシリス神の聖地「アビドス」への巡礼は最も重要な宗教行事の1つとなった。
第12王朝時代にはピラミッド建造が復活したが、構造は粗末で日干しレンガ造りのため、時代とともに崩壊した。
その他にも、ファイユーム低地の干拓、南方のヌビア地方への領土拡大と開発、地中海東部や紅海沿岸との対外交易など、中王国時代の諸王は中央集権体制の再生と国家基盤強化を推し進め、古代エジプト第2期の繁栄を極めた。
年 代 | 王 朝 | 王(ファラオ) |
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前2040年~ | 第11王朝 | メンチュヘテプ2世 メンチュヘテプ3世 メンチュヘテプ4世 |
前1991年~ | 第12王朝 | アメンエムハト1世 センウセルト1世 アメンエムハト2世 センウセルト2世 センウセルト3世 アメンエムハト3世 アメンエムハト4世 セベクネフェル女王 |
第2中間期は、第13王朝の崩壊から第18王朝による再統一までの時代で、シリアから侵入してきた異民族による過酷な支配の時代である。
第13王朝時代に中央集権体制の弱体化により再び分裂し、下エジプトに自立政権(第14王朝)が誕生し、古代エジプトの統一は崩壊した。
紀元前1730年頃には「ヒクソス」と呼ばれる異民族がシリアから侵入し、馬・戦車・強弓で装備したヒクソスは、まず三角州地帯を征服して「アヴァリス」を拠点とする王朝(第15、第16王朝)を築いた。
ヒクソスはエジプト語で「異国の支配者達」を意味し、下エジプトを支配したヒクソスは、さらに南下して、第13王朝から17王朝まで1世紀に渡って古代エジプトを過酷に支配した。
上エジプトでも最有力の「テーベ」に興った中王国の文化を維持した第17王朝は、第15王朝の覇権の下に甘んじていたが、セケンエンラー王が異民族追放を大義名分として第15王朝との戦いを始め、最終的に紀元前1570年頃に息子のイアフメス1世が第15王朝をついに滅ぼし、第16王朝も支配下に収め、古代エジプトの再統一を果たした。
これにより初めて異民族の支配を経験した時代は終焉し、古代エジプト史上最も繁栄した新王国時代が始まった。
年 代 | 王 朝 | 王(ファラオ) |
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前1782年~ | 第13王朝 | 具体的な王の存在はあまり判明していない |
前????年~ | 第14王朝 | 具体的な王の存在はあまり判明していない |
前????年~ | 第15王朝 | 具体的な王の存在はあまり判明していない |
前????年~ | 第16王朝 | 具体的な王の存在はあまり判明していない |
前????年~ | 第17王朝 | 具体的な王の存在はあまり判明していない |
新王国時代は、古代エジプトが最も繁栄を極めた時代で、この時代に建造された神殿や葬祭殿が、今日のエジプトに数多く残っている。
また、歴代の王はテーベの西岸にある「王家の谷」に葬られている。
第18王朝は軍国主義的で、王はヒクソスから学んだ馬と戦車で装備された軍隊を指揮し、中央集権体制の強化を進め、神として君臨した。
第2代のアメンホテプ1世は「カルナック神殿」を建造し、第3代のトトメス1世はシリアや南方のヌビア地方にも勢力を拡げた。
第4代のトトメス2世が亡くなると、妻のハトシェプストとの間に息子がおらず、妾腹の子の幼いトトメス3世が即位し、ハトシェプストは摂政となるが、実質的には全権を掌握した。
女王ハトシェプストの治世は穏健で、戦争を好まず国内統治に力を入れ、平和外交により繁栄させ、デイル・エル・バハリにあるメンチュヘテプ2世葬祭殿の隣に、自身のための壮麗な「ハトシェプスト女王葬祭殿」を建造した。
第5代のトトメス3世は一転して、近隣のシリア、ヌビア地方へ果敢に遠征し、エジプト史上最大の帝国を築き、オリエント世界最大の国家の一つとして君臨し、広大な征服地とともに膨大な戦利品が流れ込み、空前の繁栄を迎えた。
歴代の王は遠征で勝利すると、国家神の「アメン神」に感謝のため、テーベにある「アメン神殿」に多数の寄進を行うのが慣例となり、その結果、アメン神官達は大きな勢力を持つようになり、王位すら左右するまでに至った。
これに懸念を抱いた諸王は、アメン神官達の勢力のそぎ落としにかかり、アメンホテプ3世は圧倒的な王権により、カルナックのアメン大神殿と直結する副殿として「ルクソール神殿」を建造し、この他、自身の巨大な葬祭殿も建造したが、後代の王によって破壊され、現在は「メムノンの巨像」と呼ばれる彼の坐像が破壊されずに残っている。
アメンホテプ4世は、さらに一層アメン神官達の勢力を抑えるため、首都をテーベから「テル・エル・アマルナ」に遷都、アメン神の崇拝を禁止し、日輪の神(太陽神)「アテン」を唯一神として信仰する新たな宗教改革「アマルナ革命」を行い、自身の名も「アクエンアテン(イクナートン)」に改め、民衆に神として崇拝するよう説いた。
宗教や権威にとらわれない写実的な「アマルナ美術」が生まれ、代表作に「王妃ネフェルティティの胸像」がある。
しかし、多神教から一神教への改革に対し、国内の反対勢力から糾弾にあい、国中に不満の声が沸き起こり、宗教改革の理想は約10年で挫折し、アクエンアテンは家臣に裏切られ、最愛の妻とも別居し、失意のうちに病死した。
次代のトゥトアンクアテンは、即位後まもなくテーベに戻り、伝統的なアメン信仰を復活させ、自らも「トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)」と改名し、アクエンアテンの政策を大幅に覆したが、18歳でこの世を去っている。
この後は王位継承が混乱し、第18王朝最後のホルエムヘブが後継者に指名した宰相ラムセス1世が即位して第19王朝が始まり、新王国時代の繁栄は受け継がれ、セティ1世、ラムセス2世はその威信を示す巨大建造物を多数残した。
特にラムセス2世は、古代エジプト「最大の王」といわれ、歴代の王の中でも飛び抜けて多くの業績を残し、古代エジプト史上に燦然と輝く「偉大なファラオ」として、60年を超える彼の治世は最も繁栄を極めた時代と解される。
ラムセス2世は、カルナック神殿の中核をなすアメン大神殿の「大列柱室」や自らの葬祭殿「ラムセウム」を建造、さらに三角州地帯の都市アヴァリスに壮麗な王都「ペル・ラムセス」を建造し、テーベに宗教のみ残して遷都した。
第1王妃はその伝説的な美しさで有名なネフェルタリで、ラムセス2世の寵愛は非常に大きく、「王妃の谷」の中で最も華麗な「王妃墓」や、ラムセス2世と同じ大きさで描かれる「アブシンベル小神殿」が、それを物語っている。
紀元前1274年頃、ラムセス2世はシリアに侵攻してきたヒッタイト王ムワタリと「カデシュの戦い」となるが、その後両国は史上初の平和条約を結び、また、ヌビア地方を平定し、これを記念して「アブシンベル神殿」を建造した。
彼の治世中に、出エジプト記の預言者モーセが、イスラエルの民を連れてエジプトを脱出したといわれている。
第20王朝は王の名から「ラムセス王朝」とも呼ばれ、ラムセス3世は「最後の偉大な王」として、リビア人の侵入や同盟国ヒッタイトを滅ぼした「海の民」の侵入に対して勝利し、東地中海の多くの国が滅亡する中で存続させた。
しかし、彼の治世を最後に、覇者としての新王国時代は終わりを告げ、彼の死とともに中央集権体制は急速に衰退し始め、ラムセス6世の時代までにシリアやパレスティナ、シナイ半島の支配を失い、領土は縮小の一途を辿った。
ラムセス11世が即位した時には、オリエントの大国としての地位も喪失し、国内では彼の時代までに逆に勢力を拡張していたテーベのアメン神官達が事実上の国家を樹立して上エジプトに支配を広げ、古代エジプトの統一は再び失われ、下エジプトでは王位を継承したスメンデス1世が第21王朝を開くことになり、最後の末期王朝時代に突入した。
年 代 | 王 朝 | 王(ファラオ) |
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前1570年~ | 第18王朝 | イアフメス1世 アメンホテプ1世 トトメス1世 トトメス2世 ハトシェプスト女王 トトメス3世 アメンホテプ2世 トトメス4世 アメンホテプ3世 アメンホテプ4世 スメンクカラー ツタンカーメン アイ ホルエムヘブ |
前1293年~ | 第19王朝 | ラムセス1世 セティ1世 ラムセス2世 メルエンプタハ アメンメセス セティ2世 サプタハ タウセルト女王 |
前1185年~ | 第20王朝 | セトナクト ラムセス3世 ラムセス4世 ラムセス5世 ラムセス6世 ラムセス7世 ラムセス8世 ラムセス9世 ラムセス10世 ラムセス11世 |
末期王朝時代は、繁栄した新王国時代が終わり、国内が分裂し、異民族の王、他国による支配、古代エジプト王朝が終焉した時代である。
新王国時代の間に勢力を増したテーベのアメン神官達は、第20王朝の末期から上エジプトに事実上の国家「アメン大司祭国家」を樹立し、一方、下エジプトではスメンデス1世が「タニス」を新たな首都に第21王朝を樹立し、並立するも最終的には一応の協力関係が築かれた。
この時代の軍隊は弱体化し、リビア人やヌビア人などの外国人傭兵を雇うようになっており、やがて彼らの権力が強くなり、第22王朝から第24王朝はリビア人の王朝で、以後の王朝の多くは、移住した「異民族」の系譜を持つ王家によって建てられた。
彼らは古代エジプトの文化を尊重して、強い同化傾向を示し、古代エジプトの伝統的な王として振舞った。
リビア人による支配を救ったのがヌビアのクシュ王国で、ヌビア地方は新王国時代の支配を経て、古代エジプト文化が広く普及し、新王国が衰退により撤退した後、ヌビア人はナパタを都とした独自のクシュ王国を建国していた。
第24王朝を滅ぼしたヌビア人は第25王朝を開き、約70年間に渡り古代エジプトの復興に尽力したが、紀元前663年にオリエントで一大勢力となっていた、アッシリア帝国のアッシュール・バニパル王により征服され、アッシリア帝国の支配の下で、古代エジプトの管理を委ねられた、サイス王家(第24王朝の末裔)による第26王朝が始まった。
その後、紀元前525年に新たにオリエントの覇者となった、アケメネス朝ペルシアのカンビュセス2世に征服され、古代エジプトはペルシアの属州となり、約200年間アケメネス朝エジプト(第27王朝から第31王朝)が続いた。
紀元前332年にマケドニアのアレクサンドロス3世が、ペルシアの支配から解放して「アレクサンドリア」を建設し、彼の死後に部下のプトレマイオスが「プトレマイオス朝」を開き、「古代エジプト王朝」の歴史は幕を閉じた。
年 代 | 王 朝 | 王(ファラオ) |
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前1069年~ | 第21王朝 | スメンデス1世 ネフェルケレス プスセンネス1世 アメノフティス オソコル プシナケス プスセンネス2世 |
前945年~ | 第22王朝 (リビア朝) |
シェションク1世 オソルコン1世 シェションク2世 タケロト1世 オソルコン2世 タケロト2世 シェションク3世 パミ シェションク5世 オソルコン4世 |
前818年~ | 第23王朝 (リビア朝) |
ペディバステト シェションク4世 オソルコン3世 タケロト3世 ルドアメン イウプト |
前727年~ | 第24王朝 (リビア朝) |
テフナクト バクエンレネフ |
前747年~ | 第25王朝 (ヌビア朝) |
ピアンキ シャバカ シャバタカ タハルカ タヌトアメン |
前664年~ | 第26王朝 (サイス朝) |
プサムテク1世 ネコ2世 プサムテク2世 ウアフイブラー イアフメス2世 プサムテク3世 |
前552年~ | 第27王朝 (アケメネス朝) |
カンビュセス2世 ダレイオス1世 クセルクセス アルタクセルクセス1世 ダレイオス2世 アルタクセルクセス2世 |
前404年~ | 第28王朝 (アケメネス朝) |
アミルタイオス |
前399年~ | 第29王朝 (アケメネス朝) |
ネフアアルド1世 ハコル |
前380年~ | 第30王朝 (アケメネス朝) |
ナクトネブエフ ジェドホル ナクトホルエブ |
前343年~ | 第31王朝 (アケメネス朝) |
アルタクセルクセス3世 アルセス ダレイオス3世 |
紀元前305年、マケドニア王国のディアドコイの一人、プトレマイオス1世が「アレクサンドリア」を都に建国したエジプト王国である。
ヘレニズム三国の中で最も繁栄を極めた王国で、アレクサンドリアは地中海屈指の大都市となり、ヘレニズム文化の中心として栄えた。
プトレマイオス1世は、アレクサンドロス3世の東方遠征の伝記を残し、「ムセイオン(研究所)」を建設して各地から学者を招き、港には世界の七不思議の一つ「アレクサンドリアの大灯台」を建設した。
歴代の王は、王国の創成期はギリシア人の王として君臨したが、古代エジプトの文化や制度を壊すことはなく、安定した国内統治を行っていたが、時の流れとともに、次第にギリシア的な要素が薄くなっていき、古代エジプトの伝統的な「ファラオ」として君臨し、専制的な統治を行うようになった。
そして、王族内で権力を巡る骨肉の争いが頻繁に行なわれるようになり、国内統治は不安定な状況になっていった。
紀元前51年、クレオパトラ7世が女王に即位すると、強大なローマとの同盟が王国の唯一の存続の道であると考え、自らの美貌を活かしてローマの権力者「カエサル」や「アントニウス」を誘惑して存続を図ったが、紀元前31年の「アクティウムの海戦」でローマのオクタヴィアヌスに敗れ、紀元前30年に自殺し、アントニウスと共に葬られた。
女王の死により、ヘレニズム時代で最も栄華を誇り、約300年続いたプトレマイオス朝エジプトも、終焉を迎えた。
絶世の美女とされる女王クレオパトラ7世は、エジプト人ではなく、プトレマイオス1世の子孫でギリシア人である。
年 代 | 王 朝 | 王(ファラオ) ※共同統治や復位があるため即位順とは相違 |
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前305年~ | プトレマイオス朝 | プトレマイオス1世 ベレニケ1世女王 プトレマイオス2世 アルシノエ1世女王 アルシノエ2世女王 プトレマイオス3世 ベレニケ2世女王 プトレマイオス4世 アルシノエ3世女王 プトレマイオス5世 クレオパトラ1世女王 プトレマイオス6世 クレオパトラ2世女王 プトレマイオス8世 プトレマイオス7世 クレオパトラ3世女王 プトレマイオス・メンフィティス プトレマイオス9世 クレオパトラ4世女王 クレオパトラ5世セレネ女王 プトレマイオス10世 ベレニケ3世女王 プトレマイオス11世 プトレマイオス12世 クレオパトラ5世女王 クレオパトラ6世女王 ベレニケ4世女王 クレオパトラ7世女王 プトレマイオス13世 アルシノエ4世女王 プトレマイオス14世 プトレマイオス15世 |