目次
アラム王国 |
フェニキア |
ヘブライ王国 |
イスラエル王国 |
ユダ王国 |
ハスモン朝ユダヤ |
ヘロデ朝ユダヤ |
紀元前12世紀頃、遊牧民だったアラム人はシリアやメソポタミア北部に定住するようになり、多くの都市国家(小王国)を建設した。
中でも、「ダマスクス」はアラム人の中心活動拠点となり、ここを中心にラクダを使ってシリア砂漠などの内陸の隊商貿易で繁栄した。
アラム人の内陸貿易による活躍に伴い、彼らが使用した「アラム語」は、交易とともに広く伝わっていき、オリエント世界の共通語(商業語)となり、かのイエス・キリストも説教にはアラム語を使用した。
また、彼らが造り出したアルファベットの一種である「アラム文字」も、同様に各地に広く伝わり、オリエントでは楔形文字に代わる新文字(ヘブライ文字やアラビア文字)に、さらに北アジア・インド・東アジアなどでも各地の文字の母体になるなど、後世の様々な文字の発展に影響を与えた。
紀元前8世紀、アッシリア帝国のサルゴン2世に征服されて帝国に吸収されたが、なおも商業活動は盛んに行った。
紀元前12世紀頃、フェニキア人はレバノンの海岸地帯に定住し始め、「ビブロス」「シドン」「ティルス」などの港湾都市国家を建設し、陸上貿易のアラム人に対し、地中海の海上交易により繁栄を築いた。
地産の「レバノン杉」は貴重な建築材として、重要な交易品だった。
また、地中海各地に植民都市を建設するようになり、この中でもティルスは、紀元前814年、北アフリカに「カルタゴ」を建設し、後に地中海の覇権を巡って、ローマと三度にわたるポエニ戦争を起こした。
フェニキア人は地中海交易により様々な文化と交流し、カナーン人から学んだ表音文字を発展させ、後のアルファベットの基になる線状文字「フェニキア文字」を造り出し、伝播した。これがギリシア人に伝わり、子音のみのフェニキア文字に母音を加えて、現在の「アルファベット」になった。
紀元前9世紀からのアッシリア帝国の侵攻により服属し、アッシリア帝国滅亡後も新バビロニア王国、アケメネス朝ペルシアに服属したが、海上交易では繁栄を続け、最後の砦カルタゴの滅亡によりフェニキア人の国家は消滅した。
預言者モーセの出エジプト後、イスラエルの民は約束の地「カナン」で「ユダヤ教」を信仰しながら、12部族に分かれて定住していた。
しかし、海の民の一派であるペリシテ人との闘争の過程で、部族存亡の危機に直面し、団結してこの危機に対処するため、紀元前1000年頃、12部族の中から選ばれたサウルが初代の王として建国した。
彼が王国建設途上で挫折した後を継いだダビデ王は、ペリシテ人を撃破し、北はダマスクスから南はアカバ湾に至る地域を平定し、王都を「エルサレム」に定め、君主政治を支柱にした王国の礎を築いた。
息子のソロモン王の時代には、官僚制度の確立や大規模な土木工事により国内整備と都市強化を行い、対外交易を広げて経済を発展させ、唯一神「ヤハウェ」を祀る壮麗な「エルサレム神殿(ソロモン神殿)」を建立し、その至聖所に十戒が刻まれた石板を収めた「契約の櫃」を安置して、父が長年抱いていた夢を実現し、王国の最盛期を迎えた。
彼の死後は統制を失い、紀元前922年にヘブライ王国は、北の「イスラエル王国」と南の「ユダ王国」に分裂した。
ソロモン王の死後は息子のレハブアムが後を継いだが、ソロモンの死とともに国内の不満が一気に噴出し、紀元前922年、ユダ族に反発した北イスラエルの10部族が、王都を「サマリア」に定めて建国した。
イスラエル王国はユダ王国と比較して人口や領土、経済的にも優位であったが、10部族が反ユダ王国で一つとなり王国を築いたため、王権が不安定で度々内紛やクーデターが起こり、王家の交代が頻発した。
また、先住民の影響を受けて偶像崇拝が伝統的となり、新たにシリアのバアル神崇拝の導入など、唯一神ヤハウェ信仰が次第に変質した。
イスラエル王国は、北のアラム王国や南のユダ王国と闘争しながら、約200年間存続したが、紀元前722年にアッシリア帝国のサルゴン2世に滅ぼされ、アッシリアに強制移住となり、「イスラエルの失われた10部族」と呼ばれる。
紀元前922年、ソロモン王の息子レハブアムが、ユダ一族(ダビデ王、ソロモン王)の王位を継承して、ユダ族とベニヤミン族のダビデゆかりの2部族をまとめ、王都を「エルサレム」に定めて建国した。
エルサレムのヤハウェ神殿の祭司の権威を背景にした王権は比較的安定し、北のイスラエル王国と闘争と同盟を繰り返しながら存続した。
紀元前722年にイスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされると、その脅威はユダ王国にも及び、アッシリア帝国に服属する形で存続していたが、紀元前609年に「メギドの戦い」で敗北してエジプトの支配下となり、最終的に紀元前597年に新バビロニア王国のネブカドネザル2世の前に屈して支配下に入った。
その後、ユダ王国は新バビロニア王国に対して反乱を起こすもネブカドネザル2世に鎮圧され、紀元前587年、ユダ王国は再び反乱を起こすも、紀元前586年にネブカドネザル2世に鎮圧され、エルサレム神殿が徹底的に破壊され、ユダ王国は滅亡し、この時に大量のユダヤ人(ヘブライ人)がバビロンに連行される「バビロン捕囚」が行われた。
紀元前539年、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世が新バビロニア王国を征服した際、ユダヤ人は解放された。
紀元前539年にバビロンから解放されたユダヤ人は、エルサレムに帰還して定住し、破壊・放置されたままの神殿の再建が認められた。
紀元前517年、新バビロニア王国のネブカドネザル2世に徹底的に破壊された「エルサレム神殿」に代わる「第二神殿」の再建が完了した。
アケメネス朝ペルシア滅亡後はマケドニア王国やセレウコス朝シリアの支配を受けていたが、紀元前166年にユダ・マカバイがシリアに独立戦争「マカバイ戦争」を始め、紀元前140年に兄の意思を引継いだ弟シモンが独立を勝ち取り、ユダヤ人のハスモン朝を成立させた。
しかし、正当な祭司の家系に属さないハスモン家が「大祭司」になったことで、ユダヤ教の敬虔派との亀裂が生じ、王位継承を巡る混乱と内紛が絶えず発生して統治が安定せず、さらにアリストブロス1世の治世からは「大祭司」にして「王」の称号を持つ、政治と宗教の両方の指導者となる政教一致政権が始まり、ユダヤ的神権政治となった。
紀元前37年、ローマの支援を受けたヘロデにより、時の王アンティゴノスが倒され、ハスモン朝は滅亡した。
紀元前40年、ハスモン朝の王ヒルカノス2世が、パルティア王国の支援を得た彼の甥アンティゴノスに王位を奪取される事態が発生した。
彼の下で権力を握り、親ローマ派であったヘロデは身の危険を感じ、すぐさまローマへと逃れ、元老院から「ユダヤの王」の称号を得た。
紀元前37年、ヘロデはローマのアントニウスの支援を得て、ハスモン朝の王アンティゴノスを倒し、エドム人によるヘロデ朝が成立した。
彼はローマとの親密関係を構築し、次々と大規模な都市建築を行い、特に「第二神殿」を大改築してエルサレム神殿(ソロモン神殿)を越える規模の「ヘロデ神殿」を建造し、ローマを含む当時の世界で評判となり、多くの人々が神殿参拝に訪れた。
紀元前4年、ヘロデ大王と称された彼が亡くなると、3人の息子が後を継いで分割統治したが、ローマ帝国は王を名乗ることは許さず、領主としての統治を認め、44年のアグリッパ2世の即位後、66年にユダヤ人の反乱「ユダヤ戦争」が起こると、ローマ帝国と同盟して鎮圧し、その際ヘロデ神殿も破壊し、彼の死後はローマ帝国の直轄領となった。